2010年5月31日月曜日

川口村からの三つ峠

文化3年(1806)、川口村絵図から三つ峠を眺めてみる。
三つ峠への道は描かれていない。
御巣鷹山、茶臼山方面への道がある。これは大幡への道につながっていると思われる。
この絵図において三つ峠と毛無山は 明らかに異なる山である。
また御巣鷹山も区別されている。
三つ峠が三山の総称とはされていないことがわかる。
描かれる道は主要道である。
山道は、今も昔もいたるところにある。
三つ峠への山道がないわけではない。
しかし、神鈴権現への道は描かれていない。
三峯とは、三つの岩を持つ三つ峠のことであることは周知の通り。

2010年5月30日日曜日

三つ峠への登山ルート、空胎上人以前

延享2年(1745年)とされる
下暮地村絵図である。
空胎上人が三つ峠にやって来る以前である。
三つ峠は屏風岩下へ向かう道と
後の八十八大師が設置される場所への道があるようである。
確かに、八十八大師から屏風岩への横道は空胎上人とその弟子達によって開削 されるとの記録がある。従って、それ以前は別の道を歩んでいたことになる。
神鈴権現から屏風岩下への道が現在と同じように、山小屋へ向かう 道まで存在していたかはこの絵図からでは見えない。
この絵図でも三つ峠は屏風岩までの三つの岩を「三都峠」として記録している。
そこには御巣鷹山、木無山は含まれていないことがわかる。
伝説ではあるが、「とよ」が神鈴権現に通う道は左のルートをたどったとしか考えられない。
現在の三つ峠山頂には、どの地区からでもやって来ることは可能である。
しかし、神鈴権現に降りる方法がないのである。
現在のロッククライマーのように懸垂下降などでいとも簡単に降りられれば問題はないのであるが。
とすれば、「とよ」はクライマーだったことになるのだ。
修験者の修行の場所は山頂に及んだのであろうが、庶民の信仰場は岩の根元にあった。
「とよ」とは女性修験者であったのか。
「とよ伝説」について、新たな情報があれば連絡を頂きたい。
※土日は三つ峠へは行けませんでした。次の日曜朝には草取り掃除があるので土曜日に登ろうと思っています。写真の撮り直しと行方不明の石仏を捜しに。

2010年5月29日土曜日

三つ峠の水の効果、伝説の話

三つ峠山頂の三角点の名称は
「水峠」であることは述べました。
国土地理院の点の記で確認することができます。
かつて、屏風岩には青瀧不動尊が祀られていたらしい。
明治時代の記述によれば、ここから湧き出る水を額に垂らせば頭痛が治るといわれるとの伝承があるとのこと。
三つ峠の水の成分に、そういった物が含まれるのでしょうか?
それとも、ここまでやって来ることによって体内の変化がそうさせるのでしょうか?
本日、環境科学講座の講義を受けてきました。 この中で熱中症の対策として睡眠(熟睡)も必要であるとの話がありました。
ラベンダーの香り(匂いとして認識出来ない程度)が熟睡に効果があるとのデータがあるらしい。
三つ峠が頭痛を治すのは、水の中の何らかの香りなのでしょうか。
そこまで登ると、いろんな香りの中を通ってきます。それらの影響なのでしょうか。
もっとも苦労して三つ峠にやって来た後、家に帰るとぐっすり眠ってしまいます(疲れて)。
そうそう、水を飲むことも大事だそうです。 水を飲んで汗をかく。
現在の三つ峠の山頂直下からしみ出る水は、私は飲みません。
水道の蛇口から出たものを飲むことにしています。
それにしても、三つ峠の水を額にたらすだけで良い。
いったい何がそうさせているのでしょう、 伝説の話なのですが。

2010年5月26日水曜日

とよ女と神鈴権現と三つ峠

とよは神鈴権現のお祭りに参加していた。
今でも5月5日に行われている下暮地の行事。
下暮地から神鈴権現まで登る。
とよは先回りしてここにいたのだろうか。
それとも数見の山を越えて下暮地までやって来たのだろうか。
とよも猫のおふだを手にしたのだろうか。
とよは下暮地の娘であってはいけないのだろうか。
五月忌み(さつきいみ) と関係があるのか。
季節が意味するものは何だ?
とよの出身地が意味するものは何だ?

とよ女はどのルートで三つ峠に登ったのか

とよが神鈴権現まで通うコースがわからない。
八十八大師から屏風岩への横道は、
空胎上人とその弟子たちによって開かれた。
それ以前は別々の尾根を通っていたと思われる。
村絵図には別の道が描かれている。
とよが藤の木や川口からやってきたとすると、
現在では階段になっている崖を下ってきたのだろうか?
御巣鷹から八十八大師へ向かい横道というのも疑問。
とよは猫のおふだをもらいにやって来たのだろうか?
とよが熱中したのは何だったのか?
火を放ったのはどこの誰か?

三つ峠を境界とする地域の人々にとって
三つ峠に対する考え方に違いはなかったのか?
伝説の中に潜むメッセージとは?
三つ峠への疑問は尽きない。
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2010年5月23日日曜日

雨の中、三つ峠へ行ってきました。

とよには会えませんでした。
しかし、今回は楽しかった。
いつになく。
人間っていいな。
写真ありません。

おしゃべりが多すぎたかもしれません。
自分だけが満足しています。
とよには会えませんでしたが。 (hitorigoto)

雁の穴、富士山の噴火の跡

富士山の雁ノ穴(がんのあな)に行ってきました。
富士山には落とし穴がいくつもあり恐ろしい。
うっかり落ちてしまうと這い上がることはできない。
こういったものを目にしながら富士山頂への信仰をしていた人がいたのだろう。
この世の世界とあの世の世界。
どこまでいっても空が見えない。
帰ってきて
三つ峠の眺めが見えてくるとホッとする。
富士山の信仰と三つ峠との関係は、
そういうところにあるのではないかと
思うのだ。

見ている穴は溶岩樹型?

2010年5月22日土曜日

とよの出生地は

とよは川口の女性だという話がある。
河口湖と三つ峠の関係も、
もっとさぐる必要がある。

2010年5月21日金曜日

三つ峠の雲

雲居を知ってから三つ峠を見ると、
確かに雲が掛かっていることが多いような気がします。
三つ峠は確かに他と違う。
三つ峠にしかない何かがある。
 浦島太郎が三つ峠に座り口を開けて
こちらを眺めています(雲)。

都留市からみても不思議、三つ峠の山

都留市の厚原あたりから見る三つ峠です。中央の窪みの向こうは国中、御坂藤の木へと抜ける道。
西日の沈む山、三つ峠。
先日の月と金星は、東桂では三つ峠の真上に沈んでいきましたが写真が撮れませんでした。
日曜の三つ峠行、楽しみにしています。

2010年5月20日木曜日

とよ女の伝説と三つ峠


とよ女は紅蓮の炎につつまれて死んでしまった』…西桂町文化財マップ解説文より

『とよ』という女性が、村の若者によって火を放たれて焼死することになる。
『とよ』とは『豊』であり豊作、豊穣のことか? 
火を放つとは水難に対向する思いのことか?
200年前のこの地の状況は、日照りよりもむしろ冷害の方が多いようである。 
当時の人々の思いによる伝説ではないか。

願いがかなう。 
やっと周りの状況に気がつくゆとり。
雲に包まれることの多い三つ峠。 
その山中に生える可憐な花を目にする。 


とよの伝説については不思議に思っていた。
いかにも三つ峠らしい伝説である。

えっ、『とよ女』という人がいたと信じていたんですか?
※図は西桂町文化財マップを利用させていただきました。

2010年5月19日水曜日

天気の悪い日には雲居の三つ峠

天気の悪い日には三つ峠に雲がかかる。
そういうのを雲居というらしい。
神鈴峰の絵図にも、雲井と書いてある。
今もそうだし、昔もそうだった。
『とよ』の伝説は以前はどうにも理解できなかったのだが、なんとなく見えてきたような気がする。
いかにも三つ峠らしい。

馬返しの意味、三つ峠の境界

馬返し。
単にこれ以上馬では進むことが不可能という意味なのか。
この先を登ると石割権現の石門がある。
石門をくぐることは何を意味するのか。 
馬返しの先は確かに岩が多い。
その間を進むことになる。
俗の世界からの境界となる。

都会の方の足は速い。私の場合、ここまでもやっとの思い。
花の件、ありがとうございます。 この花咲やのとよ女だったのですね。
ここで疑問、とよ女の出身はどこなのでしょう。御坂藤の木、黒駒にそういう話があるのでしょうか。そうだとすると八丁峠を越え、御巣鷹経由でやってくる?

三つ峠の修行の道は、達磨石から始まる。
できればとよ女も、このルートから登っていただきたい。

2010年5月18日火曜日

この花咲や何て花、三つ峠の花

花の名を知りません。
ご存知の方、教えてください。

三つ峠を歩くのですが植物のことがわかりません。
知ることができれば、新しいものが見えてくるような気がします。
花びらがハートになっています。

観音様はあらゆる姿なるといいますから、このように姿を変えたと考えればよいのでしょうか。

消えてしまった観音像、三つ峠の石仏

西国三十三観音は、三つ峠西峰の屏風岩下に配置されている。しかし、半数以上は残っていない。
この場所には誰が奉納した観音像が奉納されていたのだろう。
三つの台座のみが残る。

足元の石となってしまったのだろうか。
三つ峠の石造物をお墓だと思われている方がいる。
お墓ではなく、何でも願いをかなえてくれる観音様。
奉納者はどんな願いを持っていたのか。

2010年5月17日月曜日

三つ峠は水峠


岩から吹きでる三つ峠の水。
この水はどこからやってくるのだろう。
白雲荘跡の裏にて。
先週も出ていた。
水峠はいつから、三つ峠と呼ばれるようになったのだろう。
三峠が三つ峠に変化した歴史。
水峠は三角点の名称として残る。
三つ峠への信仰は水を求め水を防ぐ願いをいだき登った。
三つ峠を囲む西桂、大幡、河口湖の住人の水への思い。

2010年5月16日日曜日

足元の石ころのこと、三つ峠の歴史の跡

三つ峠から帰ってきました。
八十八大師の道もよく見ると
石がごろごろしています。
四角い形のものが多く。
これらはお大師様の台座の石。
よく見ると文字が彫ってあります。
今日は屏風岩から白雲荘跡まで。
日の当たりの関係で
途中から撮影がうまくいかず。
屏風岩下の西国三十三観音は残っているものが少ない。大幡の方のみ。
ひょっとしたらすべてが大幡の方のものだったかもしれない。ここは落石の危険もあり気を使う。
浄土三部妙典塔は、やはり踏みつけられている。
文字が刻まれていることをもはや誰も気がつかない。
八十八大師のここもそうだけど。 夢の跡。
次の土日も撮影に挑戦。 一つ良い方法も伝授させていただいたし、ヒザの方もかなり良い。

富士信仰と三つ峠、浅間神社の北に位置する意味

北口本宮富士浅間神社は、鬼門の方角(北東)を向いている。
目立ものは特にない。
しかし、北の方角には三つ峠の岩山がある。
これが何とも気になるのである。
富士山頂からの下山、馬返しの鳥居をくぐるとき正面に見えるのは三つ峠の岩山なのである。江戸からの富士講の信者たちが小沼の宿で目にする三つ峠の三つの岩峰。富士山頂を目指したものたちが俗界への道しるべとなるものは三つ峠であった。 というような考えはなかったのだろうか?
馬返しの位置からのみ、御巣鷹、開運、木無がそれらしく見えるのをご存知か?

2010年5月15日土曜日

甲斐国の三毛犬、四毛犬、三つ峠のおふだとの関係は

山形県の高畠というところに『犬の宮』、『猫の宮』があるという。
『甲斐国の三毛犬、四毛犬』の伝説があるらしい。
 三つ峠の犬と猫のおふだと関係があるなんてことはあるんだろうか?
大幡には『高畑』というところもあったりして不思議な感じがする。

何かご存知の方、おられませんでしょうか?

2010年5月14日金曜日

不思議な感覚、三つ峠の信仰


見つめられていると、
千と千尋の世界に吸い込まれてしまいそうな気がする。
静かな、静かな大幡にて。

2010年5月13日木曜日

予定、三つ峠

日曜には屏風岩下にもう一度撮影をしなおしに行ってみようと思っています。
先日、偶然奉納者の子孫の方とお話ができました。
写真を夕方届けようと思っています。

2010年5月12日水曜日

消えゆく浄土三部妙典塔、三つ峠の石仏


『浄土三部妙典塔』は、地面と同化している。
その表面の文字も既に判別できない程になっている。
人々の足に踏まれ、新しい時代が生まれていく。
歴史というものは、こういうものかもしれない。
昭和56年の写真だけが、
そういうものが存在していたことの記録を残す。
いつかこの外形からのみ判別する者が現れるまで、静かにおやすみなさい。 
私には、あなたを持ち上げることもできない。
あなたがそこにいることを知りながら。

三つ峠の100観音計画は達成されたのか

三つ峠に100観音の奉納計画があった。
幕末の時代。
空胎上人の弟子によるもの。
(空胎上人の関与があったかわからない) 
西国33、坂東33、秩父34。
西峰屏風岩から始まる。
西から一番、二番となるのである。
すべて光背型。
坂東観音には、奉納者の銘がなく仏像が彫られている。
西国観音は文字、奉納者の銘がある。
秩父観音は文字、奉納者の他、御詠歌が彫られている。
大幡の奉納者の場合全面に彫られるが、
西桂奉納者では、側面に彫られている。
神鈴権現には西国観音の灯明台がある。

100観音のすべてが存在するわけではない。
計画が完成していたかはわからない。
昭和56年に確認されていたものでも、現在所在不明のものがある。
明治以降の廃仏毀釈の影響による紛失はあったのか?
八十八大師の多くは現存する。
八十八大師にあるお地蔵様の首はない。
台座(蓮の花)のみが残っているようだが、その上の仏様はなくなってしまったのか?
幕末の時代、ここが信仰の中心であったことは事実である。
そこには御巣鷹山、木無山は考えはない。

2010年5月11日火曜日

入道沢-仏の沢、三つ峠の信仰の道

大幡側の入道沢、西桂側の仏の沢。
かつては、人々の交易の道であった。
『入道』と『仏』、これを意味するものは何だろう。
大幡には機(はた)神様がある。
西桂は古くから織物の土地であった。
機神社へ参拝する者も多かった。
三つ峠山頂岩下の大幡の人々による観音像の奉納。
大幡からはその道を通って達磨石から登ったに違いない。
大幡の方の信仰の厚さを考えると、湯の沢から東尾根を登ってしままうことは考えにくい。
『入道』と『仏』、実は双方に石切場が存在するのである。
双方の石切場から石仏が彫られ、奉納されるのだ。
信仰の道でもあり、石仏が生まれる場所でもある。
これが仏の沢であり、入道沢なのである。

三つ峠は水雲山なのか









絵図は西桂から見た三つの岩を現している。
ここに『水雲山』と書かれている。
以前は東峰をそれと解釈していた。しかし、三つ峠全体をそう呼んでいたのではという思いを持つようになった。 大幡の信者の信仰は西峰(屏風岩)まで及んでいるからである。 西峰に現存する西国観音は、大幡意外の奉納者がないのである。 坂東観音には文字が刻まれていないので奉納者がわからない。 秩父観音は半数以上が大幡の方なのである。
御巣鷹山への信仰ならば、そちらにあるべきである。
信仰の条件には、岩が必要なのである。
御巣鷹山、木無山が除外される理由。

2010年5月10日月曜日

三つ峠を信仰する人々の情報の共有



三つ峠を囲む人々は、どのように三つ峠を眺めていたのだろうか?
大幡では水を意識し、水峠と考えていた。
西桂では岩を意識し、三つの岩、三峠と考えていた。
では、河口湖ではどうだろう?
河口湖では三つ峠の山頂を臨むことはできない。
筒口から吸い込まれた柄杓は、三つ峠の方角から昇る。
それぞれの地域の情報は共有された。
それらが融合し水峠でもあり三峠でもあり、『みづとうげ』と呼ばれることとなった。
この過程の中に御巣鷹山、木無山の考えはない。
現代になり国道8号線(旧)が御坂峠を抜ける。
天下茶屋を通る道である。
山頂を目指す登山の歴史。
三つ峠も楽に登ることが可能となる。
三つの岩や水の源である信仰が忘れ去られる。
三つ山とは、御巣鷹山、開運山、木無山との考えが発明されることとなる。
三つ峠山内の石造物に目を向けていただきたい。
それらはどこに存在しているのか。
そして奉納者は誰なのか。
信仰のあった時代と信仰がなくなった時代。
三つ峠に対する見方そのものが変わってしまったのである。
現代においては、地名辞典や山梨県が解説するように
『三つ峠とは、御巣鷹山、開運山、木無山である』ことは受け入れなければならないかもしれない。
しかし200年前においては、
三つ峠とは、水峠であり三峠。『みづとうげ』と呼んでいたのである。(と思う)

水雲山とは三つ峠

9日に行われた大幡地区のお参りは、かつては御巣鷹山の尾根にある『水雲山三峠大権現』の社まで出かけていた。
さらに入道沢の社へも向かわなければならないのだから大変なものである。
現在三つ峠屏風岩下にある石造物(観音像)の多くが大幡の信者によるものである。おふだにもある『水雲山』とは『三峠』のことであり『みづとうげ』、すなわち『三つ峠』に対する信仰なのである。
大幡の方の信仰心の厚さには驚くべきものがある。
御巣鷹山の社は最近地元関係者によりひび割れなどの補修が行われたようである。写真にあるタスキはしていないのかもしれない。
※この間のタスキや雨除などは、登山者による心遣いによるもののようでした。 心ある方々に尊敬いたします。

2010年5月9日日曜日

三つ峠の信仰、猫と犬

三つ峠のお参りが毎年5月に行われる。
西桂町下暮地では、神鈴権現へ5月5日。
猫のお札が配られる。
都留市大幡では、水雲山三峠大権現。
5月の日曜日、今年は9日に行われた。
こちらでは、犬のお札。
山の向こうとこちらで、猫と犬。
下暮地と大幡とを結ぶ古い道は、
仏の沢と入道沢。
何か似ていて、微妙に異なる。
今回大幡に古くから住む方からも、三つ峠は『みづとうげ』と呼んでいたことを聞いた。
これは西桂でも耳にしていたこと。
信仰の時代、三つ峠は『みづとうげ』と呼ばれていた。
山頂登山の時代になり、『みつとうげ』と呼ばれるようになってしまった。
下暮地、大幡、どちらも三つ峠は里に近い。 しかも、急峻である。
今でも三つ峠に関わる信仰行事が続けられている。
三つ峠に対する先祖のこだわりについて探ってみたいものである。
※お札を載せてよいものかわかりませんが、多くのかたに興味を持っていただけるように願うことからお許しください。 関係者の方々へ。

2010年5月8日土曜日

三つ峠の三角点、所在地のこと

今では富士吉田市となった上暮地。
上暮地の山の神に続く尾根にある三角点のこと。

基準点コード TR45338261601 
点名 新屋 
種別等級 四等三角点
緯度 35°30′58.0121 
経度 138°49′40.6912 
標高 721.70 m
所在地 山梨県都留市西桂町上暮地姥ヶ沢4065

新屋(あらや)という三角点らしい。
この所在地は、都留市の西桂町であり、
西桂町の上暮地。
かなりややこしい。
三角点の所在地については、
こういうものだということを考慮しておかねばならないかもしれない。
西桂町は合併していないし、都留市であったこともない。
今後合併したとしても、富士吉田市の上暮地はどうなることか知らない。 

三つ峠の三角点、東尾根

三つ峠の東に続く東尾根。
馬の背にある三角点のこと。

基準点コード TR45338265601 
点名 大沢 
種別等級 四等三角点
緯度 35°32′56.3268 
経度 138°49′21.7721 
標高 1545.78 m
所在地 山梨県南都留郡西桂町大字下暮地字大沢1715
 
ここは、東沢と俵石の境界であると信じていた。
大沢とは憩いの森より南側の地域だと思っていた。
となると、字東沢というのはなくなってしまったのでしょうか?
調べてみることにします。そうだとするといつから?
そうではなくて、東沢が新たに加わったとするのが正しい?

三つ峠の三角点、金峰山

三つ峠の尾根に金峰山(きんぼうやま)がある。
基準点コード TR35338262601 
点名 上暮地村 
種別等級 三等三角点 
緯度 35°31′32.9403 
経度 138°49′44.3939 
標高 871.03 m
所在地  山梨県南都留郡西桂町大字下暮地字金峰1414番地

ここにある三角点の点名は、『上暮地村』。
所在地は、『西桂町の下暮地』。

数年前、このあたりのヤブをガサガサしていたところ偶然人に出くわす。
T研究所のK先生とのこと。以前、所を訪ねたときにはお会いできませんでした。 
この場所が『下暮地の上暮地』だとは知りませんでした。
上暮地の金峰山であると信じていた私。

2010年5月7日金曜日

三つ峠の三角点は水峠です

三つ峠の三角点は、二等三角点。
設置場所は、
『山梨県南都留郡富士河口湖町大字 河口字御巣鷹山2733番地の1』

その三角点の名称は、『水峠』。
基準点コードTR25338265401 
点名水峠 
緯度35°32′57.3805 
経度138°48′33.1311 
標高1785.23 m
 
山梨県の地図にはこれが描かれていたんですね。

三つ峠は、やはり『みづとうげ』なのでした。
『みづとうげ』と発音し、『三峠』とも『水峠』とも書いていた。

しかし、御巣鷹山の中にあることになってしまっている。

これにはカラクリがある。
三つ峠の眺め方に、いくつかの見方があることがわかる。
時代とともに。
どれが正しいのではなく、どれも正しい。


では、幕末に限ってみるとどうなるのでしょう?
明治が及ぼす影響。
その後の三つ峠に対する意識の変化。
この件については、少々解明できるかもしれません。
乞うご期待。


三角点については、本日まで知りませんでした。

2010年5月6日木曜日

三つ峠、石割権現のこと

三つ峠に石割権現があったことは述べました。
かつてはこの脇を登山道が通っていましたが、現在では崩落のために巻くようになっています。
ずっと前には脇を通るのではなく、この岩の間をすり抜けて向こう側に行っていたのでしょうか?
しかし、向こう側では岩をよじ登ることになりかなりの難所。信仰の為にはわざわざ大変な道を選ばなければならなかったのでしょうか? 

石門のこちらの世界とあちらの世界などのような考えが存在していたのでしょうか?

2010年5月5日水曜日

カシミールより倉見山

カシミールにて上暮地からの鳥瞰図を描く。
厄神社から障子岩下付近まで沢道。
一見中腹のように見えている。
案内図と一致。尾根に上がる。
上がった後は、ひたすら山頂へ向かう。


案内図では尾根を下り、隣の障子岩の尾根に移動したのち山頂に向かっているように見えてしまう。
現地の案内板に従って歩けば、案内図のように歩くことはないので心配の必要はないのであるのだが。


三つ峠の三つの峯を四つの峯とする方がいる。
私自身においてもそのように見ていた。
四つの峯があればその間の窪みが峠となり『三つの峠』と思った時期があった。
ところが四つ目の峯は峯ではない。 
見かけ上の峯、虚像であったのだ。
祖先達は賢い、現代のよりも。


もう少し、祖先たちに近寄ってみたいと思っている。

倉見山への登山道

上は西桂中学から眺めた私の倉見山登山ルートである。
一方下のは、ずっと富士吉田側のどこかからみたルート。
三つ峠駅構内に掲示されているもの。
いったん『さすの平』の尾根に出てから、また沢に戻る?
厄神社から出発したのちも沢道でなく中腹を歩く?
倉見山登山案内にあるルートを歩くのは困難であると思う。
ほとんどの方は、この案内を見ても何も感ずることはないだろう。
この写真を撮った場所をさがしてみようと思う。
この連休は山を歩きませんでした。

2010年5月1日土曜日

やはり、コツコツ三つ峠がよろしいようです

Nの関係者に、新しく発見した秩父観音について話してみた。
やはり関心はない様子。今は新規開発ルートにのみへの気持ちのようだ。
先日MTのM氏や研究会のT氏、N氏に話だけでも聞いていただいたことで満足したほうがよいだろう。
もう少しデータとしてまとめ大幡の方と直接話しをしたほうが反応がありそうである。
三つ峠を知ったところで我々の生活が急に変わるわけではない。
私が関心をもってウロウロし始めた頃、『もっとタメになることをしろ!』と言われたことが何度かある。
確かにタメにならないムダとも思える。
しかし、このムダが何かを意味しているようで気になるのだ。


一見ムダと思える何かが、ムダではないような意味。
自分の興味とし、個人の疑問が解決すれば良しとする。
簡単でも何らかの記録を残しておこうと思う。
私にとって個人的にムダという贅沢をさせていただくことにする。