2010年7月30日金曜日

もうすぐ馬返し

ここまで来れば、もうすぐ馬返し。
尾根途中の平らなところ。
この先はいよいよ新たな三ツ峠が始まる。
達磨石から馬返しまでは石造物は見つかっていない。

上にいけば富士山はよく見える。
馬返しからでも隙間から見えている。
ベンチ腰掛のんびりとてっぺんだけの富士山も眺めるのもいいものである。
Posted by Picasa

2010年7月29日木曜日

夕暮れの三ツ峠

帰宅途中の三ツ峠である。
ほんの少し前まで屏風岩に夕日が当たっていた。
そして光の筋が手前に延びる。
前々からこの光景も不思議な感じがしていた。
写真では見せられないのが残念である。

三ツ峠には岩がある。
三つの峰に岩がある。
岩が三つそろって三ツ峠。

日が沈んでも、三ツ峠はやはり三ツ峠である。
Posted by Picasa

2010年7月28日水曜日

三ツ峠の妖怪ぬりかべ岩

登山道脇に不思議な岩がある。
妙に長方体になっているのだ。
この岩をひっくり返せば、
文字が刻んであるのではないかと思わせる。
 しかし、どこにもノミの跡がなく
人手が入っているとは思われない。

私はこれを巨大な豆腐岩だと思っていた。
登山者の方に話すと、
「ぬりかべ」だと言っていた。
確かに夜になるとヒョコッと起き上がるような気がする。
これからこれをヌリカベ岩と呼ぶことにしよう。
Posted by Picasa

2010年7月27日火曜日

三ツ峠のトンネル

大曲を過ぎ、トンネルを抜けると股のぞき。
日陰の中を歩くには助かる。
午後のパラパラ雨だって防いでくれる。
ところどころの隙間もあるし、
高度を稼いで冷えてくる。
三ツ峠表口は、キツイ、クルシイ。
だけど何度歩いても
何か不思議を感じるのである。
新しい発見を見つけるのだ。

トンネルを抜けると股のぞき。
一休みして、富士山を眺めようか。
Posted by Picasa

2010年7月26日月曜日

三ツ峠の花火

土曜、日曜と三ツ峠に入る。
三ツ峠はつまらいないと言っていたかたに
どうやって三ツ峠の良さを伝えられるか考えた。
山頂を目指す方は、山頂に達するとさっさと下山した。
表登山口は確かにきつい。
達磨石から勾配は仇になり、馬返しを過ぎれば尚のこと。
八十八大師までは大変なことである。
しかし、不思議なことに気がついた。
200年前はどうだったかわからない。
達磨石から八十八大師まで妙な自然の気づかいがある。
この二日で感じたのである。
以前と急に変わったのではく、気がつかなかったのだ。
何がって? 歩いてみて下さい。 何度か登ると気がつきます。
もっとも既に感じている方も多いのかもしれません。

八十八大師で休んでいると毎日三ツ峠に登っているという方に会う。私は二日目ではすっかりバテました。
三ツ峠の花火。 私には線香花火ではなく大空に舞い上がる花火に見えました。
Posted by Picasa

2010年7月25日日曜日

三ツ峠らしい道

馬返しを過ぎると道の様子も変わってくる。
急なところも増えてくる。
急でなくても岩がゴロゴロのところをすり抜けていかねばならない。
「三ツ峠なんて二度と来たくない」という方に会った。
この道は、苦労して苦労して登る道。
無駄な無駄なことを実践する道。
この道が広くなって車に追い越されるなんてことがあれば
三ツ峠の良さは消滅する。

達磨石までが車で入れるようになったことを
残念がっている古くからの登山者の声も聞く。
達磨石から上はそうなることは今後もない。
三ツ峠は汗を振り絞り、無駄を楽しむ山なのである。
山中の石仏はこの道をかついで登ったのだ。
Posted by Picasa

2010年7月24日土曜日

三つ峠の人面岩

久しぶりに三つ峠に入る。
朝から青空はほとんどなし。
時々ガスも出ていた。
人面岩は、やっぱり顔に見える。
耳だってある。

三つ峠が御巣鷹、開運、木無だと言い出したのは、
その時期の時代背景にあると見た。
「みずとうげ」も、「みつとうげ」のほうが都合がいい。
明治以前を否定する必要もあったのだ。

今日も山頂へは行かず。
水の音が聞こえる。
突然谷底に落ちていく岩の音。
三ツ峠の南面には危険が多い。
信仰とはこういうところに生まれてくるのもうなずける。
幕末の人々は人面岩に気がついていたのだろうか。
古文書や絵図にはそんなものは書いてはない。
三ツ峠は富士山が眺められなくても不思議を楽しめる山である。
Posted by Picasa

このところの三つ峠

このところのお天気は、午後には急変している。
吉田はどしゃ降りなのに西桂はパラパラなんてことも。
お山の天気はどうなのでしょう。
朝早く立ち、昼には戻るようにしましょうか。
昨日はカミナリ様もゴロゴロでしたね。

寝苦しい夜。睡眠不足はいけません。
頭痛のほうもどうでしょう。
良ければ久しぶりに山に入りましょうか。

このところのお天気は変わりやすい。
Posted by Picasa

2010年7月22日木曜日

ご無沙汰してます、三つ峠の山

自然というべきか、不自然なのか。
階段(状)を歩く。
痛々しいというべきか、そうでないのか。
登山者が増えた方が良いのか、
すたれて途絶えたほうが良いのか。

誰も関心が無くなってしまえば、
全てが破壊されてしまう。
多少の痛みを伴わなければ、
維持することも難しいらしい。

実際のところ私にはわからないのである。
とりあえず自分だけ良ければというのも仕方がない。
このところ山には入っていない。
Posted by Picasa

2010年7月20日火曜日

三つ峠を眺めてみて思う

山祇神社を過ぎ、
初めて三つ峠を目にする姿。
うっかりすると通りすぎてしまう。
沢沿いの道を歩き、水の音を耳にする。
そこに三つ峠がある。
あれが三つ峠である。
登ってしまえば、その姿を見ることはできない。
ここからでしか見えない風景。
Posted by Picasa

2010年7月19日月曜日

三つ峠の水

柄杓の水が流れてきます。
三つの峰の水峠。
多くの方は、この姿を見ない。
沢沿いのこの道を歩いたもののみが知るその形。
三つ峠から水が流れてきます。
Posted by Picasa

2010年7月18日日曜日

夏です、山です、三つ峠

三つ峠の姿を見ずして登るのは残念です。
今日の三つ峠の姿はどうですか。
これが三つ峠。
これぞ三つ峠。
Posted by Picasa

2010年7月17日土曜日

新しい三つ峠の姿

午前中は雲の中のようでしたね。
朝から登られた方はどうでしたか?
三つ峠の登山道は整備されつつあります。
どうです。 すっきりした三つ峠。
三つ峠の奇怪な形。
三つ峠を見ずして三つ峠の上に立つことは
もったいないことです。
山頂へ行くまでにも、いくつもの楽しみがある山。
整備してくださっている方々に感謝。
私は当分、登ることができません。
達磨石までで帰ることにします。
新しい三つ峠の姿の楽しみは、もう少し後にお預け。
Posted by Picasa

2010年7月16日金曜日

もう(すぐ)夏、三つ峠

夕方の三つ峠です。
このところ山に入ることができません。
もうすぐ夏。
行っておきたい場所、あれこれ。
次の予定も立ちません。
登山道の整備はどこまで進んだのでしょうか。
ご苦労様です。
Posted by Picasa

人々が目指した三つ峠とは

どうしてこんなところを目指したのか不思議に思うのである。
山頂を目指すのであればもっと楽な道があるのに。

三つ峠は面白い山で古くから女性も登る。
伝説のとよ女もそうである。女性を入れない山ではなかった。
石造物の奉納者にも女性の銘がある。

八十八体の弘法大師、百体の観音、その他合計で200体もの石造物が存在した。
三つ峠を苦労して、苦労して登ってきた者に
運が開けてもいいはずである。
三つ峠を開運山と呼ぶのは自然なことのように思う。
Posted by Picasa

2010年7月11日日曜日

三ツ峠のとよ女の伝説

とよの伝説の舞台は5月5日の権現様のお参りである。では権現様とはどこか?
神鈴権現であり、三峠権現のことである。 これが存在するのは表三ツ峠の中峰の神社、裏三ツ峠の御巣鷹の尾根の神社である。
現在でも続けられている祭礼である。大幡では麓に降ろしているが、下暮地では岩下の社まで行くのである。犬のお札、猫のお札が配られる。伝説では、とよは可憐な花となる。悲しく、美しく。
伝説はその後、河口村のとよと伝えられるようにまでなる。
西面には三ツ峠に対する神社、信仰はない。三ツ峠の権現様の祭礼となれば、大幡村か下暮地村のとよであると考えるのが自然のように思える。 また、とよの花が咲くのは新暦の5月、旧暦5月では散ってしまっている。 以前述べたように、地球の寒暖周期による江戸期が寒冷期であったことを考慮すれば辻褄が合うのかもしれない。 昭和期の伝説には、それ以前のものと異なる意図が働いているようにしか思えない。 大幡、下暮地の住民には純粋な三ツ峠への思いが古くから、そして今でも続いていることを感じていただけないでしょうか。

2010年7月10日土曜日

三ツ峠と2つの御巣鷹山、総称は本来何と呼ばれるべきか

「三ツ峠  河口部落の東北側に位置し、木無山の陰に当たり、常時は眺めることは出来ない。
標高1786メートルで三峰連峰中の一山なり。
三峰とは御巣鷹山、三ツ峠山、木無山の総称にして、
三ツ峠とは開運山、中ノ岳、御巣鷹山をもって三ツ峠と言う」---ふるさとの地名考 河口、大石の部より

御巣鷹山-(開運山-中ノ岳-御巣鷹山)-木無山
というように五つの山が存在する。
開運山が三ツ峠の三つの岩峰の西峰であるとすると、
東峰は御巣鷹山である。
さらにその北側に御巣鷹山がある。  御巣鷹山-(御巣鷹山-中ノ岳-開運山)-木無山  

どうやらここらあたりが御巣鷹山-開運山-木無山と言われ始められる出処かもしれない。
三ツ峠を岩峰を見ることができないうえに想像されたものかもしれない。
三ツ峠の西面一帯は字名を「御巣鷹山」と言う。
この字内に、御巣鷹山と三ツ峠山と木無山が入る。
三ツ峠が御巣鷹山、開運山、木無山であるのではない。
字御巣鷹山の御巣鷹山、字御巣鷹山の三ツ峠、字御巣鷹山の木無山と呼ぶのが正しい。
三つの総称は三ツ峠ではなく、御巣鷹山という字名なのである。

この方面には三ツ峠の信仰となる神社、石造物が存在しない。
昭和13年、太宰はドテラ姿で登る。

伝説の開運山、三ツ峠

伝説として弘法大師、当山に入り、100日の行をつむ、この間三日しか好天気無く、以来当山え好天気に登山したる者、運が開くと宣言した由緒により開運山とも言う。
---「ふるさとの地名考 河口、大石の部 河口湖町教育委員会」

「開運山」は伝説の話であった。
古文書にはない。(今のところ)
江戸期以前の庶民は、山頂に立つことは少ない。
なぜなら、三ツ峠の信仰は岩の根元に存在する。
岩そのものが信仰の対象、神であり仏であるのである。
よって、その岩の上に立つことは稀であった。
運が開くのは修験者たちだけであったのかもしれない。
「開運山」は古文書に出てこない。(今のところ)
出ているものがあれば新発見となる。
伝説の話、その根拠となるものを探している。
ご存知の方が居られれば、ご連絡くだされ。

明治27年の三ツ峠

山梨県市郡村誌を見ている。明治27年10月出版。
桂村誌。 桂村の役場は現在の西桂町小沼。
山岳の項に三ツ峠山の解説がある。 
「本村西北ニアリ嶺上ヨリ二分シ北ハ寶村二属ス樹木繁生渓水數條アリ」
三ツ峠は桂村にあることがわかる。

ここで先に上げた明治17年の点の記の履歴。
西桂村と訂正があるのは、さらに後のこと。
明治8年に桂村となるので、上暮地村や下暮地村とあるのは17年当時まで旧村のなごりが残っていたのかもしれない。
明治においては古い三ツ峠の信仰も多少残っており、大幡や下暮地が三ツ峠への道であったのである。 
更に面白いのは、この時点で「ツ」の文字が入っている。
しかし、「三峠」とツの入らない記載と混在しているのである。
時は明治27年のこと。

当たり前の三ツ峠の姿

三ツ峠の姿をどれだけの方がご存知なのであろうか。
この姿をご覧になられて御巣鷹、木無を含むことを
どうやって想像すればよいのだろう。
表三つ峠と言われる所以は単に南面にあることではない。
生活の中に古くからこの山を見続けてきた住人達の
こころの中を感じてはいただけないでしょうか。

昨日の雨から今日の晴天。
今日も朝から登山道の整備の方々の汗が流れる。
毎日、馬返しまでを往復される方は、もうお帰り。
私はこのところ頭痛、山、登らず。

2010年7月4日日曜日

三ツ峠を感じる瞬間

谷間の間を這い上がる。
またたく間にガスに覆われていく。
三ツ峠のコブが消えていく。
私はラクダの背中にいるノミなのだ。


三ツ峠のこの道には歴史がある。
江戸時代がある。
もっと前の時代の気配も感じる。


三ツ峠は霊山である。
それを感じるのは、この道しかないのだ。
何故なら、三つのコブを見られるのはこの方向しかないからだ。


三ツ峠の登山道を整備する方々に会う。
三ツ峠の由来は三つのコブを持つことをお話する。
先程まで見えなかった山頂が顔を出す。
三つのコブを目にしたとき感動されていた。
最近、登山道が歩きやすくなったのは、彼らのおかげである。
山頂に向かい整備をされるのだという。
最も古い三ツ峠への道は、人々の関わりの歴史でもある。
この道は険しい。登るのは苦しい。それを乗り越えて行く。
三ツ峠は霊山である。
一息ついた瞬間、心の中の霞が消えていく。 三ツ峠とはそういう山なのである。
Posted by Picasa

2010年7月3日土曜日

三ツ峠の岩

多分そうだと思うのです。
何がって?
それがその…。
馬返しを少し上がったところでお会いした方へ。
驚かせてしまって申し訳ありませんでした。
足場の悪いところで少々時間をいただいて。
その後どうでした。 天気。
どちらに降られたのでしょうか。
お話聞いていただき、ありがとうございました。 
Posted by Picasa

三ツ峠を信仰してきた先祖をもつ人々へ

大幡の人々が三ツ峠を水雲山と呼んでいた。
それは空胎上人が訪れるずっと前から。
水雲山三峠大権現とあるように、三ツ峠が信仰の対象であったのである。
尾根に社があることから、御巣鷹山を対象としている方がおられるかもしれない。
大幡村絵図に水雲山とあることから社のある場所を水雲山と考えれる方もいるかもしれない。
しかし、社の向きを見ていただきたい。
方向は明らかに三ツ峠の方角を向いていたはずだ。
さらに三峠大権現とあるように三ツ峠の信仰なのである。
神鈴峰の絵図には水雲山の名がある。
三ツ峠の三つの岩峰の一つが水雲山なのであろうか。
否、三峰が水雲山と考えるのが自然ではなかろうか。
御巣鷹山、木無山ではないことを注記しておく。
高い山だけでは信仰は発生しない。そこには岩が必要なのだ。
大幡の住人、下暮地の住人から三ツ峠への信仰は生まれるのは極めて自然である。
この地区の人々の三ツ峠の信仰の祭りが毎年5月に今尚続けられている。
三ツ峠の石造物は彼らの先祖が奉納したものである。
それらを強く思う人々は、今では体力的にそこに行くことはできない年代となっている。
その思いを無視する行動は避けたい。
我が行動の中にそれに反するものを感じられた場合には、
直ちに連絡をいただきたい。 

2010年7月2日金曜日

明治の三ツ峠は水峠

国土地理院の点の記履歴を見る。

二等三角点  水峠
明治十七年撰定
地名 山梨県甲斐国都留郡西桂村大字水峠


ここには上暮地村から下暮地村への訂正、
さらに西桂村への訂正がある。
この時、三角点設置の順路は上暮地から登っている。
頂上への運搬は駄馬。
下暮地からでは馬では無理なのでやむおえない。
このために上暮地と下暮地を取り違えたのだろうか。
 
明治17年には、「みづとうげ」と呼んでいる事実がある。
信仰の山は、その後登山の時代をむかえる。
大正時代、山頂を憂える人々がいた。
昭和に入り小沼駅が三ツ峠駅に改称。
濁点でない時代に入る。

しかし、今でも三ツ峠が「みづとうげ」と発音していたことを
知っている人々が多くいることに驚く。
もっとも、いつの日か「みづとうげ」であることを忘れる時代が
目の前にあるのも事実だ。


土曜の天気は大丈夫だろうか。 早めにでかけ、早めに戻ろうと思っている。