2010年3月31日水曜日

富士登山ルートはなぜ東に集中するのか


富士講の信者たちは、どうして西側から登らないのか?
先日の講習会で専門の先生たちが議論していた。
1. 地形的な問題。
   大沢崩れなどの崩壊
   安定した岩盤のがない(?)
2. 気象的な問題。
   偏西風の影響 
と言ったことなどをおっしゃっていたように思う。
私は富士山に登ったことが一度もない。
私は勝手に想像する。
富士には日の出がよく似合う(はずである)。
とすれば、日の出の方向に人は集まる。
自然と東方向から登りたがる。
西方面からの道が存在した場合には、日の出の邪魔となってしまう。
従って信仰の道は北西方面が選ばれないこととなる。
人口の多い江戸から遠いとは理由にならない。

三つ峠の登山道についても不思議に思うことがある。
山頂を目指すとすれば、他に楽な道が存在するのに。
わざわざ大変な道を選んでいるのか?
なぜなら、信仰の為だからである。
大幡の信者たちは夏狩湯の沢から東尾根を歩いたのか?
否。
やはり、大竹(仏の沢)を抜け、山祇神社を抜け達磨石から岩場を目指したはずである。
三つ峠の信仰の道も日の出の見える側が選ばれたかもしれない。
富士山にも三つ峠にも大日如来、 ご来光。

そんなふうに解釈してみましたが、いかがでしょうか?
富士山のこと、三つ峠のこと。

2010年3月29日月曜日

感謝の意

数少ない読者の方から「頑張れ」へのクリックに対し感謝いたします。
実験的にああでもなく、こうでもなくの書き方をしているにも関わらず。
当方の視力の関係から、標準文字より大きな文字を使用することにしました。

いつの日か、まともなものを書けたらと思うのですが。
実験的と言い訳をして、当分この状態を続けようと思います。
bingMapsやgoogleMapsの航空写真がうまく使えれば面白いことができそうな気がするのですが。
しかし現在、三つ峠の航空写真は拡大できるようにはなっていないようですね。

三つ峠の石割権現

先日の三つ峠散策で気づいたことがありました。
以前見つけた石割権現は、人目につかないところにあると思っていました。
ところが今回見てみると登山道から見えています。
古い登山道は石割権現の脇を通っていました。
現在の道はややそれますが、やはり見えています。
石割権現の信仰があった頃には、周りの木々もなかったかと思われます。
今では誰も訪れることがありません。(たぶん)
社も朽ちてしまっています。


馬返しを少々上がったところにあります。


先日、三つ峠山、倉見山、山中・忍野の石割山へと出掛け
少々左膝関節に負担がかかってしまったようです。

2010年3月28日日曜日

甲斐神鈴峯之図における大幡道

三つ峠への順路は大沢(柄杓流川)を渡る。
道が分かれる。
左はとうげ(三つ峠)、山祇神社の前を通る。
右は天開穴(てんこ穴)へと進む。
湯の沢の峠を越え大幡へと通じる道である。

大幡から三つ峠への奉納者の順路とは


大幡から三つ峠への順路は、ここを通ったのではないだろうか?
湯の沢の峠まで進んだ後、仏の沢を下ったのだろうか?
それとも三つ峠東尾根を登ったのだろうか?
神鈴峰の図には天開穴(てんこ穴)への道が記されているのをみると、現在の表口登山道を進んだように思える。

三つ峠へ向かう入道と仏

大幡と下暮地を結ぶ道がある。
大幡方面から入道沢を進む。
支流の沢の脇にある権現様。
大幡では、この権現様と登山者が水雲山と呼んでいる権現様の両方を一日でお参りしていたそうである。
入道沢の権現様も古い社が別の位置にあるのだろうか?


現在の林道は鉄塔が見えるところで終りとなる。古くは尾根道を歩いていたようである。
鉄塔のところが湯ノ沢で向こうには「仏の沢」がある。
そして、こちら側が「入道沢」。
大幡からの三つ峠への信仰の道は入道沢から仏の沢を通り、大沢からだるま石というルートであったのかもしれない。
鉄塔から東尾根を駆け上がったほうが八十八大師までは近いはずだと思うのだが。
「入道」と「仏」は、何を意味するのであろうか?
村人達が奉納する仏像を背負って 行った道。
三つ峠の修験者がやって来た道。古くは大幡と下暮地を結んでいた街道、交易路である。

2010年3月27日土曜日

bingMapsによる倉見山


bingMapsでの経路は、どうやって表示すればよいのでしょう?

三つ峠の八十八大師


春になれば、真っ赤なおべべにしてもらえます。
お大師様は80体以上あるようです。


もうすぐ春になる。
Posted by Picasa

2010年3月26日金曜日

倉見山からの三つ峠

倉見山の道も富士山の展望用となっているようである。
三つ峠を眺められるような場所がない。(少ない)
三つ峠が三つの岩であることは、町から眺めるとよくわかる。
しかし、三つに見えない富士吉田方面から眺めたほうが岩の山であることが目立つように思う。
富士登山を終えた方たちが目にするものが三つ峠の岩場であるはずなのに、それに触れることがないのが不思議でならない。

2010年3月25日木曜日

倉見山への新道







 前日の三つ峠の後、22日には倉見山に登る。
西桂町で倉見山への登山道を整備したとのことだったので
歩いてみた。 
町民グランドからの道や障子岩尾根の道は登っていたが、
この尾根は初めである。
古い道に比べ、この道が今後どのくらいもつのであろうか。

2010年3月21日日曜日

三つ峠の水雲山

妙具谷の右にあるのが水雲山。
三つ峠の三つの峰のうち東峠と呼ばれるところです。
大幡方面には、「水雲山三峠大権現」の祠が存在します。
絵図で西峠のところには名前が付けてないのは、三つの峰の総称としているからでしょうか。
屏風岩下まで大幡からの奉納者が目立ちます。 御巣鷹山の尾根にある祠は、地元の方は「権現様」と呼んできました。 登山道が変わったために沢に移動され、さらに現在の北口登山道入り口に新たに設置されることになりました。 大幡の方が南面の岩下まで来るのが大変であったろうと思います。 

三つ峠にある夫婦岩


水雲山と総本社の間を妙具谷と言うらしい。 間にある二本の岩が夫婦岩ではないか。登山道を歩いているあいだにわずかに木々の間に見える光景である。

三つ峠で出会うもの

私は四足になっていました。
写真を撮っていると、ジッと見つめられていました。


今しばらく、ご勘弁を。
私の方から退散いたします。

2010年3月20日土曜日

三つ峠の観音巡り

 三つ峠、秩父観音像を五つ、新たに確認をしました。
「西桂町の石造物」、「三ッ峠の信仰と民俗」には載っていないものです。
となると、秩父観音巡りの道は大正時代の道とは異なるようです。
全てがそろうことにはならないでしょうが、あといくつかを見つけられればと思っています。 
これらは幕末に奉納されたものです。 願いをかなえるために。

太陽の倉見山、北斗七星の三つ峠

この時期になると倉見山のこの位置から太陽が昇ります。
上手宮浅間神社(西桂町)の参道の方向の延長線上です。
不思議に思うのは、太陽の出る位置の山の地形が平らになっていることです。
その地に行っても建物や石造物はありません。
神社から見て目印にだけなっていると考えればよいのでしょうか?
この神社から三つ峠に北斗七星が沈むのは秋です。
幕末時代三つ峠再興の主、空胎上人が水修行をした場所です。
空胎上人は、このことを知っていたに違いありません。(と思う)

富士に沈む北斗七星

愛鷹山、沼津方面から富士山に北斗七星が沈む。(はず)

富士山と北斗七星、北麓における三つ峠

富士山本宮浅間大社静岡県富士宮市)から富士山の上に北斗七星が昇る。 (はずである)
この時期において。
残念ながらその地に伺う機会がないので確認はしていない。
富士宮に居られる方がいましたら、その姿を公開していただきたい。


富士山の噴火のために建てられるのであるから不思議ではない。(と思う)
不思議であるのは、夜の富士山について語られることがほどんどないことである。


北斗七星が水を汲むための柄杓であることを認識した時代はいつのことだろうか?
富士には柄杓がよく似合う。


富士山北麓と南麓についての北斗七星の関係について考えてみた。
三つ峠は、やはり富士山と切り離せないのか。

2010年3月19日金曜日

河口湖から北斗七星を眺めて見てください、この時期の夕方に、三つ峠の方角です

三つ峠は三峠でも水峠でもよく漢字にこだわらない必要があると申し上げていたのに、
せのうみについては漢字にこだわってしまいました。
 宇宙湖などにも漢字にこだわる必要がないかと思われます。


この時期に河口湖に居られる方に確認をしていただきたいのですが。
船津から夕方、北斗七星は見えますか?
筒口神社からは、三つ峠方面に立って見えるかと思います。
春分の日を決めていたのではないでしょうか?

明日、天気が良ければ確認に行ってみようと思います。
ライブカメラで見えないかと探したのですが、
富士山の方角しか向いていないようでした。

せのうみ(せいのうみ)と呼ばれたのは昔なのか

西湖は、古来「せのうみ」と呼ばれたのか?

「石花海」と書く。(こともある)

「石の花」とは何?
溶岩のぶつぶつした穴のものを花と考えたらどうだろう?
そうした「石の花がある海(湖)」。


「せのうみ」から「石花海」の字があてられたとすると、発音の方が古い。
「石花」を以前から「せ」と読んでいたとすると、溶岩が湖へ流入後のこととなる。

伊能図における河口湖の「仙湖」は、「せのうみ」ではないのか?
甲斐国志では、山中湖も「石花湖」とある。
そうなると富士五湖はすべて「せのうみ」ということになる。

山中湖の「宇津湖」の意味は? 「宇宙湖」?

「石花」について、ご存知の方居られませんか?
どうして「せ」なのか?

三つ峠については、やっておきたいことがあるのですが手付かずです。
 

2010年3月15日月曜日

笏(しゃく)は流されたのか

では、笏(しゃく)は流されたのでしょうか?
やはり流され吸い込まれたのでしょう。
柄杓(ひしゃく)も流され、笏(しゃく)も流され、筒口に吸い込まれました。
さらに下暮地では、釈迦(しゃか)の仏像も流されました。
長い時間の中には、いろんな出来事がありました。

どれも本当にあったのです。(と思います)

筒口の柄杓(または笏)はどこをくぐり抜けるのか

筒口の柄杓(または笏)はどこをくぐり抜けるのか?
筒口 -> 河口湖駅 -> ハイランド -> 月江寺 へと抜ける。
船津溶岩流によって川がせき止められ現在の河口湖が形成される。
河口湖から流れる川が地下に存在する。
このように考えてもよいのだろうか?

「しゃく」を「笏」と考えると物語は続かない。
たったひとりのできごとが民衆に伝えられるのだろうか?
「柄杓」であり「北斗七星」を考えると多くの民衆が感じることができる。 そして、伝説となった。

ウソはデタラメなのだろうか?
何かを示唆してはいないか?

「しゃく」は筒口に吸い込まれた。 … 事実
「月江寺」に流れ着いた。 … ありえない
「三つ峠」をくぐり抜けた。 … 絶対にありえない

「しゃく」とは「柄杓」であり天に上り「北斗七星」となった。 
三つ峠には「妙見菩薩」が祀られていた。 … 古文書に記載あり

2010年3月14日日曜日

筒口の絵図と柄杓、三つ峠と富士、柄杓の意味

筒口の絵図(部分)である。

江戸時代の後期と思われる。

筒の口はこのようにいくつもあったらしい。

これらは、どれがどこなのでしょうか?
この近くに住んでいるという年配のご婦人に会う。
北斗七星が山の上に立っているのを気にしていた。
今でもこのことに関心を示す方がおられるのであるから、
昔(といってもかなり古い)の時代の先祖たちが興味をもつことは不思議ではない。

私は縄文時代までさかのぼれると思っていたら、
その時代に「柄杓は存在したのか?」と他の方に指摘された。

柄杓の形を柄杓と認識できるようになる時代はいつなのか?
その前の時代には、北斗七星を連続した特別の星と認識できたのか?

関東地方や静岡、山梨に大陸からの渡来の方たちがあるらしい。
彼らは富士山を求めて住むようになったのだろうか?
「徐福」は日本にたどりついたのかはわからないけれど、
渡来の方たちが 徐福であったのだろうか?
柄杓の星を柄杓として見ることをこの地で感じることを行ったのは、そういった方々だったのだろうか?

筒口の絵図は江戸末期と思われるが、この地が筒口であったのは船津溶岩流がここまで到達したときから始まる。
富士山が噴火の最中の時代火の山を水で消したいという思いが、
天の柄杓で行えたらとの願いと結びつくことは不思議ではない。

これらのことを考慮すると富士山があり、オマケの三つ峠も有りか?
そのように考える方も古くからいたと考えたい。
(そうでない人も存在していたはずだと私は感じている。)

BingMapのほうがさらに形が見えているようである。
YahooMapとは水位が異なるようだ。

2010年3月13日土曜日

「せのうみ」のこと


甲斐国志での山中湖の説明である。
古名を「かき海」 と言っていたとのこと。

しかし、「石花海」と書いて「せのうみ」と辞書にある。
これを「せのうみ」と呼ぶとすると、
富士五湖すべてが「せのうみ」と呼ばれていたことになる。
山中湖が「宇津湖」と呼ばれたのはいつのこと?
では、「宇津」とは何のこと?
静岡に「宇津ノ谷」というところがある。
「せのうみ(石花海)」も静岡にある。

人々が地名を名づけるときの基準とは何であったのか?
三つ峠が三峰を持つ岩であることは、西桂に住んでいた人たちにとってのこと。
御巣鷹山、木無山、開運山を三つ峠であると思っていた人たちもいたのだろうか? 
そして、それはどこのことなのか?

2010年3月9日火曜日

富士北麓の信仰と三つ峠

富士山北側の信仰では、
南の富士山は太陽信仰、
北の御坂山塊では北極星信仰としていた。
それらはどちらか一つではなく、双方を取り入れていた。
…と私は考えている。


三つ峠は富士山のオマケではない。
三つ峠は三つ峠そのものに意味が存在しているのである。


信仰という教科書を求めていたのではなく、
毎日の生活に必要なことが信仰とされていた時代。


三つ峠が、
御巣鷹山、木無山、開運山の総称などとはこの地に住む者は誰も信じていなかった。
何故なら、三つ峠そのものが三つの岩を持つ山であることを毎日見ているからである。
もちろん、水の山であることも知っている。

筒口神社と三つ峠



筒口神社では、
北斗七星が三つ峠から昇り、黒岳に沈む。
(残念ながら、三つ峠山頂は見えない)
北には御坂峠。 北方面の稜線は下がっている。
観測には都合の良い場所なのである。

筒口に柄杓が吸い込まれる。
三つ峠に柄杓が昇る。
柄杓は黒岳に沈む。

溶岩の進出。 現河口湖の成立。
この地が特別な場所であることを知った人々。
神社の設立。
三つ峠の信仰。

小沼(西桂)の北斗七星の信仰との共通。
柄杓流川の命名。

この地に生活するに必要な情報の獲得。
富士山信仰とは別の意味を持っていた。

2010年3月7日日曜日

穴口神社周辺の地形



穴口の古図と比較すると面白いと思います。
溶岩が進入して割れているところは、精進湖のそれと同じ状況でしょうか?


穴口とは、柄杓の吸い込まれた口だと言われています。
柄杓はここから吸い込まれた後、天に昇り星となるのです。
今では吸い込むことはないようですが、
天の柄杓は眺めることができます。


河童伝説もこのあたりを言うのでしょうか?


yahooの写真のほうが水中の様子も見えるので使用させていただきました。

2010年3月5日金曜日

三つ峠は、富士山信仰の付属なのか

Q:富士山信仰のために三つ峠に登るのか?
A:これは正しい。


しかし、これだけではない。
三つ峠には、三つ峠だけの信仰の歴史が存在する。


富士山の噴火の時代には、富士山に人々は注目していた。
ところが、富士山が安定してしまうと
この近隣に住む人たちは、富士山に対してそれほど注目をしない。
むしろ、富士山よりも身近である里の山の方が重要となる。


里の山の三つ峠の岩に信仰を求めた。そんな時代が存在した。


神社というのも面白い。
大きな神社は、大正時代にできたものも多い。


もっとも古いのは、その土地に住む人々の目印となるものであったのだろう。
季節を知るために。
太陽や星を意識した。
これらはその後、いくつかの理由が付加されることとなる。


三つ峠が、富士山のためだけに存在している訳ではないことを感じる。