2007年6月30日土曜日

三峠は、いつから『みつとうげ』か?




駅のまわりを見てみましょう。
『三つ峠駅』      ...「つ」の文字があります。
『三ッ峠登山案内所』...「ッ」の文字。
『三ッ峠みやげ』   ...「ッ」の文字。

『みづとうげ』と読んでいた時代、なぜ『みつとうげ』としていったのだろうか。

意外と知られている『顔の岩』(face rock)



『北辰妙見菩薩』が祀られていたというピークの『顔の岩』。
昔の人は、ふもとからも『顔』であることが見えていたのだろうか?

この『顔の岩』のことを、『知ってるよ』と言った登山者がいた。
けっこう知られているのだろうか?
午前中は、その光と影で微妙に表情を変えていく。
『親不知』手前のところで、ぼんやり眺めてみるのもいい。
山に登れないなら、『大沢公園駐車場』から。
ここからだと、双眼鏡が欲しい。

大沢から登る三峠


古くからここから三峠を目指した。
大沢を登っていく。三峠から大沢へ流れた水は
『柄杓流川』と名を変える。
この土地からは、御巣鷹山は見えない。
木無山(毛無山)は、山には見えない。
三峠の言われを、『けなし』、『おすたか』に結びつけたのは
この土地に住んでいた人たちではなかったはずだ。

三峠と『大久保山』

『おおくぼ山』から三峠を眺める。

『柄杓流川』がおおきく蛇行するところ。
大きく窪んでいるところから、この土地を『おおくぼ』と呼ぶ。
その山のピークが『おおくぼ山』。標高803m。
『おおくぼ』の向こうに三峠が見える。

Q: 「三峠の右にある山を何と呼ぶ?」
A: 「あれは『おおくぼ山』』

そんな会話があったのだろうか?
三峠から続く東尾根を『おおくぼ山』と記している登山地図。
この土地の人は、だれも知らない。

2007年6月29日金曜日

三峠『夕日尾根』に沈む夕日

三峠から河口湖天上山へ続く尾根を『夕日尾根』と呼ばれていました。
『夕日尾根』に夕日が沈んでいきます。

夕日が沈んでいるところから手前に延びる尾根は、『府戸尾根』といいます。
だるま石から三峠へ登り、夕日尾根、府戸尾根を下るのが
かつての登山ルートでした。 府戸尾根は、今ではヤブです。

2007年6月28日木曜日

『金峰山』も『まつるべ山』も磁石は狂わない!

三峠から延びる尾根に『金峰山』があります。
平成18年秋のことです。『金峰山では方位磁石が狂う!』という話が持ち上がりました。
そして、10年前の平成8年7月21日、岩手県一関市まつるべ山においても
『磁石が狂ったために遭難した!』、しかも、『方位磁石は40度も狂う!』というのです。
金峰山のその場所には、こんな落書き40°西へ傾くところ

さっそく調べてみましょう。 結果は???
まったく狂っていません
平成8年7月21日の岩手県一関市まつるべ山においては、どうだったのでしょう?
当時の新聞記事には、そのようには書かれていませんでした。
その時の参加者のおひとりに、聞くことができました。
やはり、『方位磁石の異常による遭難ではない』ことが判りました。
そもそも、『方位磁石が狂う場所』はなかなかないらしいのです。
よく、『富士山の青樹が原樹海において磁石が狂う』という話があるのですが
実際には狂わないとのことです。
山岳遭難において、『方位磁石が狂ったための遭難は事例がない』とのこと。
よくよく考えてみれば、
『海上を航行する場合と、山を歩く場合では違う』ことが判ります。
海上では特に障害物がありませんが、山の場合はその方角に進もうとしても
そこには道はありません。 岩があったり、樹木があったりと方角を変えなければ進みません。
いつのまには、どっちの方角を向いているのは判らなくなってしまいます。
尾根があれば、尾根を歩いてしまいます。
沢があれば、沢を歩いてしまいます。
結局のところ、『自分自身の判断ミス』。 けっして、『方位磁石が狂った』のではありません。

三峠から続く金峰山の尾根、ここに『富士見散策路ハイキングコース』があります。
その中に『40°狂う』という看板を見つけてください。
どうです、方位磁石は狂っていますか?

更にこの場所に人工的な平坦地が多く存在し、
これを『古代寺院群、古代遺跡が存在』などという話が持ち上がりましたが
『人工的な平坦地』は、『最近まで行っていた畑の跡』でした。
くれぐれも、勘違いなさらぬように...。

2007年6月24日日曜日

三峠の夕日


三峠の夕日には、不思議なものを感じます。

左に屏風岩。中央部に神鈴権現。
そして、左に八十八大師。
それらに、スポットライトのように夕日が射しています。

山の模型を作りました


ぎざぎざなのですが、少し離れてみると
けっこういけているとおもうのですが。

中央あたりが、『三峠』です。

ここらあたりの北緯と東経は、どのくらいでしょうか?



三ッ峠駅の裏手にあります。
ここには、 『北緯35°31 東経135°51』と刻まれています。
GPSの測定値と異なっています。
これも同時期に、通知してあるのですが、未だにそのまま。
万一、これを信じてしまわないように。

磁石の異常ではありませんが。

三ッ峠案内板の謎?

三ッ峠駅を降り、下暮地の集落を歩く。
集落を通り抜けるころ、『三ッ峠登山案内図』がある。
大方の皆さんが目にするのではないだろうか。
すでにご存知の方もいらっしゃると思うのですが、
知らない方には、お知らせしましょう。


この案内板のことです。 『開運山(三ッ峠山)』が中央部になっています。

私たちが登っているのは、中央部ではありません。
三角点のある屏風岩の上なのです。

さらに、中央部の岩下に神鈴権現があります。
その前に建つ石造物は、『一石供養塔』です。
一石供養塔』ではありません。

平成16年3月に、この件を当局に通知しているのですが、訂正されていません。
ご存知のない方には、ここにお知らせいたします。

『親不知の碑』は、うっかりすると見過ごしてしまいます。
『愛染明王』の碑は登山道がほんの少しはずれていますので、
やはり、見過ごしてしまいます。

2007年6月21日木曜日

涼しい三峠をどうぞ

三峠から流れてきます。
4月に雪が降りました。

暑くなってきました。 涼しそうな三峠をどうぞ。

2007年6月19日火曜日

三峠山中に謎の神社?

三峠に戻ります。
だるま石から登り、馬返しにやってきます。
ここから、いよいよ、少々急になってきます。
登山道も崩壊しやすく、変更になった場所が
いくつもあります。

古い登山道であった方を通ると、
道の脇の岩の割れ目に、
誰もお参りしていない神社がありました。

『大正九年八月十九日再建』とあります。

『石割権現社』と思われます。
昭和初期の頃の『三ッ峠山平面界図』には記されています。

『天の瀧』は柄杓流に注ぎます。


中野川(数見川)は、『柄杓流川』に流れていきます。
合流地点の手前に『天の瀧』があります。
『甲斐神鈴峯之図』では、『天ヶ瀧』として描かれています。
ネクタイのような瀧です。

柄杓流川の他に『桂川』

今回は、三峠でも柄杓流川でもなく『桂川』を紹介しましょう。
1万年前位(かな?)富士山が噴火し大月猿橋まで溶岩が流れていきました。
桂川は溶岩です。

中にはこんな岩も。

『めがね岩』と呼ばれています。
溶岩のアーチとなっているのです。

いつから、『みツとうげ』?3

『三ッ峠山平面界図』、これには駅名が『小沼』とあるから昭和18年以前である。
『三ッ峠保勝会』の地図にも会の名称にも「ッ」の文字が入っている。
ところが、この会の大正十二年に書かれた登山案内原稿を見ると
『三峠』、『三峠山』、『甲斐国誌三峠山記事』とあり『ッ』の文字は入っていない。

この原稿には、
「山名ニハ別称ヲ挙クレバ往古ハ仙泉山ト云ヒ或ハ三峯山或ハ神鈴峯ノ名アリ」
と書かれている。
『三峯山』・・・ みつみね?  みづみね?
『神鈴峯』・・・ みすずみね? みずみね?

『仙泉山』・・・ せんせんやま?? この名が書かれているものを他に見ていない。
かつて、河口湖を『仙湖』と呼ばれていたから、河口湖と深く関係しているのかもしれない。
『柄杓流川』の名の由来にあるように。


昭和18年以前に書かれた観光用の案内図には『ッ』の文字が入っている。
『開運山』、今のところ由来については全くわかっていない。
『三ッ峠』、登山、観光によって一気に一般化の名称となった『ッ』。

2007年6月18日月曜日

いつから、『みツとうげ』?2

『ツ』も昔から、あったかのもしれない。

天保二年  (1831) 『三都峠』 ・・・ これは、み『ツ』とうげ、だろうか?
天保一二年 (1841) 『神鈴峯』
安政五年  (1858) 『三鈴峯』
年次不詳        『神鈴峯』
これらは、『甲斐神鈴峯之図』の描かれたころ、空胎上人の関連の古文書。

伊能図は、『三峠』、甲州道中分間延絵図では、『水峠』。

『みづとうげ』、『みずとうげ』ばかりではなく、『みつとうげ』もあったのだろうか??

当時、文字の書ける人は少なかった。
呼び方も、いろいろあったのだろうか??

2007年6月17日日曜日

『股のぞき』では、自然に股から覗いてしまうのです




『股のぞき』という場所がある。 『馬返し』までは、まだまだ。
松の幹が股のようになっていて、そこから富士を眺めることができる。
だけど、この松、昔から、ここで、こんなふうに、あったわけじゃあ、ありません。

『股のぞき』。それは、重い荷物を背負って、『米倉』に向かう。
『股のぞき』、ここで、坂が折れ曲がる。
荷物を背負って、一息つく。
自然と、自分の股の向こうに、富士の嶺が見えてくる。
この場所を、『股のぞき』という。

『神鈴峯之図』をみると、『米倉』があったらしい。
『馬返し』のあたりであろう。

最近になって、やっと『農鳥』が見えるようになった。
鳩サブレのような形の農鳥。

今年は、いつもと、確かに違う。

2007年6月16日土曜日

三峠は海の底



三峠は、海の底でした。
こんなふうに、『貝の化石』もあるのです。
江戸時代の絵図、『甲斐神鈴峯之図』には、
貝石山』と書かれています。

三峠の中峠には、かつて、御舟石という
舟の形の大岩があったそうです。
関東大震災のころ、落ちてしまったらしい。

貝の石があって、石の舟があって、
天上界に登って行って。

天の上には、柄杓の星があって。

里を流れる川が『柄杓流川』であって。
この柄杓流川に合流する別の川には、
天の滝』と呼ばれる滝もあるのです。

親不知から見た『顔の岩』


八十八大師を通り、しばらく進むと『親不知』にたどり着く。
今では、この上部にある岩場のところまで崩壊が進んでいる。

目線を変えて、進行方向の岩場を眺めてみよう。
すると、そこに『顔の岩』。
この顔は、午前中でなければ見ることができない。
北辰妙見菩薩が祀られていたという東峠だ。

最近、声をかけた見知らぬ登山者の方に写真を見せると、
『知っている』と言っていた。

ここは、危ないところなので、先を急いでします。
しかも、見るのは足元ばかり。

親不知を渡る前に、安全な場所があるので
ことで一息、目の前の岩を眺めてください。

それにしても、あの登山者の方。
いつから、この岩のことを知っているのでしょうか?

以前から、知られている事実なのでしょうか?

いつから、『みツとうげ』?

この土地に住む人に聞くと、ほんの少し前まで『みとうげ』。
では、いつから『みとうげ』?
『秋葉原』は、本当は『あきら』。
では、 いつのまにか『あきハばら』。

駅の名前は、以前は違う名前でした。 小沼駅。
駅名を変えたときに、そうなったのでしょうか?

まだ、調べてありません。

いったい、いつから、『みとうげ』?

『みっつ』のピークの『みづとうげ』




『三峠』には、三つのピークがあります。
西峠、中峠、東峠となっています。
これは、『木無山』、『開運山』、『御巣鷹山』ではありません。
それを書いてあるのは地名辞典だけなのです。
そして、その云われ、由来となるものが無いのです。
ですから、古文書の中に出てきません。

三つのピークで『三峠』なのです。
由来のわからない『開運山』、古文書や絵図にありません。

天保時代のものといわれる『甲斐神鈴峯之図』にも、
三つのピークが描かれています。

そもそも、『木無山、開運山、御巣鷹山』を、
三つのピークとして眺めることができるのでしょうか?

『甲斐神鈴峯之図』では、東峠のところに、『水雲山』と書かれています。

御巣鷹山の尾根に『水雲山三峠大権現』の祠があります。
三峠信仰の社。 南北方向に配置され、北極星、北斗七星を意識しています。
この社があるところが『水雲山』ではなく、『三峠』が『水雲山』なのです。

三峠から流れ出す『柄杓流川』とも関係があるはずです。

2007年6月12日火曜日

『烏帽子岩』といいます。


三峠山中にある奇岩を紹介します。
これは、『えぼし(烏帽子)岩』といいます。
確かに烏帽子に似ています。
でも、ぱっくり口を開けた人魚人のようにも見えます。
山頂へ続く登山道にはありません。

2007年6月11日月曜日

三峠は『水峠』、そして『柄杓流』(北斗七星)の山


水峠』という絵図が存在することを知りませんでした。
みづとうげ』と呼ばれていたことは知っていました。
たいていの場合、『三峠』と書かれています。
『甲州道中分間延絵図』に『水峠』と書かれているのですね。
いよいよ三峠(みづとうげ)が、
西峠中峠東峠水雲山)の三峯に秀でているだけでなく
水の湧き出る山でもあるために呼ばれていた『水峠』。
伝説の『柄杓流川』の由来は、
いよいよ、『北斗七星』にあることに確信を持ち始めました。
三峠は、『柄杓流』の山。

2007年6月9日土曜日

伊能大図みる三峠



伊能大図にみる三峠。『三峠』から東の尾根を下っていく。
湯ノ沢の入り口付近にある山が、『森沢山』。
現在、森沢山には高圧線の鉄塔がある。
登山地図の中に『大久保山』と書かれているものがある。
実際の大久保山の位置は、森沢山のすぐ奥の山。
伊能大図に、それが記入されていると思ったのだが無かった。
三峠には、『つ』の文字は記入されていなかった。
『山』の文字も記入されていない。 『三峠』。

2007年6月6日水曜日

『水雲山』は三峠


三峠の江戸時代の絵図があります。

絵図には、『水雲山』の名称があります。

そうです、『水雲山』とは三峠のことなのです。

御巣鷹山の尾根にある『水雲山三峠大権現』の社。

ここは、三峠をお参りするところ。

『水雲山』とは、『三峠(みづとうげ)』のことだったのです。

『六字名号塔』の謎


ダルマ石のあるところに六字名号塔(南無阿弥陀仏)が建っています。
ダルマ石のほうは、登山道尾根を向いているのに名号塔は、別の方角をむいていす。
名号塔は、南北方向を向いているのです。 われわれがこれを拝む方向は北。
やはり、北極星を意識しています。 
 三峠から流れ出る『柄杓流川』は、やっぱり『北斗七星』を意識して命名されたに
違いありません。 

2007年6月4日月曜日

『柄杓流川』のひみつ



『しゃくながれがわ』って読むんですが、江戸期の絵図には『ヒシャクナガレ』って書いてあるものもあります。

伝説によれば、河口湖に柄杓を流してしまった。その柄杓が三峠を通り抜け下暮地村に流れ出てきたというのです。 そこで、この川を『柄杓流川』というのだそうです。

 しかし、こんなことはありえません。 私は思うのです。 三峠の東峠には『北辰妙見菩薩』が祀られていることが古文書にあります。 それは、北極星、『北斗七星』のことだそうです。

 とすれば、神(または仏)様が天の柄杓(北斗七星)で河口湖の水を汲む。 その水を三峠に注ぐ。 その水が川になる。 その川の名を『柄杓流川』。

 三峠は『みづとうげ』。 水峠ともいう。 山頂直下の岩場から、年中水がしみ出ている。 古代の人たちが天の柄杓を見て、想像したに違いない。

 この川をしばらく下ると、『天の瀧』の水と合流する。


『柄杓流川』。  三峠を源流とする、不思議な名の川です。