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2010年3月9日火曜日

富士北麓の信仰と三つ峠

富士山北側の信仰では、
南の富士山は太陽信仰、
北の御坂山塊では北極星信仰としていた。
それらはどちらか一つではなく、双方を取り入れていた。
…と私は考えている。


三つ峠は富士山のオマケではない。
三つ峠は三つ峠そのものに意味が存在しているのである。


信仰という教科書を求めていたのではなく、
毎日の生活に必要なことが信仰とされていた時代。


三つ峠が、
御巣鷹山、木無山、開運山の総称などとはこの地に住む者は誰も信じていなかった。
何故なら、三つ峠そのものが三つの岩を持つ山であることを毎日見ているからである。
もちろん、水の山であることも知っている。

筒口神社と三つ峠



筒口神社では、
北斗七星が三つ峠から昇り、黒岳に沈む。
(残念ながら、三つ峠山頂は見えない)
北には御坂峠。 北方面の稜線は下がっている。
観測には都合の良い場所なのである。

筒口に柄杓が吸い込まれる。
三つ峠に柄杓が昇る。
柄杓は黒岳に沈む。

溶岩の進出。 現河口湖の成立。
この地が特別な場所であることを知った人々。
神社の設立。
三つ峠の信仰。

小沼(西桂)の北斗七星の信仰との共通。
柄杓流川の命名。

この地に生活するに必要な情報の獲得。
富士山信仰とは別の意味を持っていた。

2010年2月27日土曜日

大正時代の三つ峠

神鈴権現までの道がある。
三つ峠の山頂は、みっつの峰がある。
御巣鷹、木無(けなし)もありますが…。

2010年2月21日日曜日

衆善奉行の碑と富士山


明治期の絵においても、衆善奉行の碑の向きは変わっていない。

この碑を拝むと、向こう 側に富士山が見えるのは偶然なのだろうか。

1850年頃に建てられたと思われる。 年代が読み取れない。

不 ニ山一乗寺の入り口。 寺の背後には、三つ峠がある。

2010年2月12日金曜日

三つ峠周辺の山の名前、伊能図より

伊能図に記載される山の名前を見てみよう。

明見山。 石窪山。 獅子留山。 石割山。

鹿留(ししどめ)山と石割山を基準とすると、

石窪山、明見山はどこになるのか?

杓子山が明見山だとすると、石窪山とは?

福善寺(ふくせんじ)は、大明見(おおあすみ)にあったと伝えられる。

山号を明見山という。

大明見の集落が移動する前の場所。

記録された山の名は、勘違いされたものだろうか?
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2010年2月9日火曜日

白隠禅師の万霊塔


白隠禅師の書といわれる万霊塔。

白隠禅師は、三つ峠を眺めていただけましたか?
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2010年2月5日金曜日

三つ峠とハレー彗星

天保6年(1835)、一字一石供養塔が建てられた。

この年にハレー彗星が出現。

北斗七星の方角に。

三つ峠の上にハレー彗星の尾が見えていたはずである。

このことについての空胎上人の記録はないのだろうか?

人々はどんな思いをしていたのだろうか?

2010年2月4日木曜日

伊能図の『仙湖』とは、三つ峠の歴史との関係は

伊能図の仙湖とは、西湖のことだったのですね。
甲斐国志の富士八海に西湖の記述がある。

西(せ)の海
古名、戔海と訓ず
今、西の字を用いるも音をとりてセノウミと言い、
今は、ニシノウミと言う。

戔 -> (せん)  -> 仙
海 -> (うみ) -> 湖
河口湖を西湖と伊能測量隊に教えた方は誰なのでしょう? 
三つ峠の歴史の中で「仙泉山」とも言われたとの情報源はどこにあるのだろう。
私もどこかに書いてしまっているような気がする。
もしそれが正しいとしても『仙湖』とは関係がないようである。

『せのうみ』とは、1000年前の富士山の噴火によって分断されてしまった
本栖湖と精進湖と西湖を一つとする巨大な湖のことである。

今日でも、西湖としてその名が残っていることにも発見があった。
1000年前に、三つ峠の山頂から富士山の樹海が火の海になっている姿を
どこかの誰かが見ていたに違いない。

2010年1月30日土曜日

三つ峠の三十三観音

三つ峠の三十三観音は、いつ設置されたのか?

八十八大師は、八十八体供養塔の年代と同じと考えることにする。

すると三十三観音は、それ以前か以後なのか?

明治直前だと思うのだが、そうなると奉納者と三つ峠の関係に疑問が発生する。

空胎上人とその一門たちは、三つ峠をどのようにしたかったのだろう。

空胎上人以前の信仰と、新事業とは何ら問題はなかったのか?

33ヶ所巡りの事業は、成功したのだろうか?

三つ峠の竜馬伝、篤姫、新撰組。 三つ峠山中には、別世界があったのだろうか?

里ではペリー来航の影響で、お台場建設に協力していた時代のこと。
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2010年1月23日土曜日

甲斐国志から、三つ峠の由来をもう一度おさらい


三つ峠山

河口村分の八町山より峰続き東南1里あまり。

この山に至る峰は、奇岩峨々として、三峰に秀ず。

故に、三つ峠という。

岩上に小祠あり、三つ峠権現という。

また、船に似たる岩あり。

(船に似た岩は崩落したとのことで、現在ありません。岩上の小祠も今は存在しません。)




この件は多くの方が述べられていますが、三つ峠の基本となりますので再度記載しておきます。

三つ峠が富士山眺望のための高台ではないことも感じ取ってみてください。

信仰と岩との関係を感じてください。 御巣鷹山と木無山とは、性質が異なります。

三つ峠が開運の山であることを感じてみてください。

(かつて、私は古文書に記載がないことから開運山を否定していました。 しかし、そこは訂正いたします。)

2010年1月16日土曜日

三つ峠の石造物


幕末に建てられた石造物。

激動の時代に民衆は、何を考えたのか?

三つ峠山は、それ自身が三つの峰を持つ。

御巣鷹山、木無山は含まれない。

人々の目的は、山頂の踏破ではなかった。

以前にとった写真をながめていたら、

一度も調査をされていない石造物であることが判明。
激動の時代の、この地の竜馬伝。
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2010年1月9日土曜日

幕末の三つ峠


川口村絵図の一部である。

三峯(三つ峠)と毛無山(木無山)、御巣鷹山が描かれている。

総称とする見方は、ここにはない。

昭和になっての総称とする三つ峠の見方には、

意図的なものがあったのだろうか?



昨年より、柄杓の意味を考えていた。 考えているうちに、当然のような気がしてきた。

当たり前を証明するには、何を述べればよいのかが解らないでいる。

三つ峠が御巣鷹山と木無山の総称とは言えない。(総称とするのは誤りである)

なぜなら、総称とする記述が何一つ見つからないからである。
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2009年11月30日月曜日

船津の妙見社


北斗七星を祀った船津の妙見社。

ここから、北斗七星を眺めていたのだ。
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2008年5月16日金曜日

昔の人の心の中は?


昔の人の心の中は?

故郷に、こんなものがありました。

だんな様と奥様。

普通、奥様は『妻』としか書かれていません。

ところがここには、きちんと名前が書かれています。

『安永9年』ですから、1780年のことです。228年も前のこと。


後世の我々へのメッセージです。 石に刻んでまで。

2007年12月7日金曜日

200年前、星野氏の石燈篭のこと

星野氏の石燈篭に刻まれている文字は、

『花﨑驛星野廣安獻石燈 一對格小沼諏訪祠』
『文化六年己巳七月』

とあります。
1809年のことですから、200年位前のこと。
不思議なことにこの石燈篭、
この町では石造物調査で紹介されたことがないのです。
ですから、何が刻まれているか知られていません。
では、どうして花咲村の方がこの地の神社に奉納したのか。
それは、そこに刻まれています。
大月市の方、西桂にいらっしゃることがありましたら、
ぜひ、ご覧になってみてください。