2010年1月30日土曜日

三つ峠は三峠か、水峠か?水峠か?

古文書に書かれる個人の名前も面白い。
同一人物であるのに、漢字の表記が異なることがあるのである。

三峠であっても、水峠であっても、三都峠でも、どれでもよい。

三峯を神鈴峯などと表記するのは、なんとも洒落ている。


八十八大師と三十三観音は、どちらが先に設置されたのか?
今は、そのことを考えている。

三つ峠の三十三観音

三つ峠の三十三観音は、いつ設置されたのか?

八十八大師は、八十八体供養塔の年代と同じと考えることにする。

すると三十三観音は、それ以前か以後なのか?

明治直前だと思うのだが、そうなると奉納者と三つ峠の関係に疑問が発生する。

空胎上人とその一門たちは、三つ峠をどのようにしたかったのだろう。

空胎上人以前の信仰と、新事業とは何ら問題はなかったのか?

33ヶ所巡りの事業は、成功したのだろうか?

三つ峠の竜馬伝、篤姫、新撰組。 三つ峠山中には、別世界があったのだろうか?

里ではペリー来航の影響で、お台場建設に協力していた時代のこと。
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2010年1月29日金曜日

三つ峠の山名由来をもう一度

三つ峠は、『みづとうげ』と発音されることが多かった。
そして、それを聞いた文字の書ける者は、
ある人は、『三峠』と書き、また『水峠』とも書いた。
『三都峠』と書くものもいた。

『みつみね』と呼ぶものがいた。
それを聞いた、文字の書ける者は、『三峰』と書いた。
ある者は、『神鈴峰』と書いた。

Q: どれが、正しいのか? 
A: 全て正しいのである。

文字を書ける者がどれだけいたのかを考えてほしい。

木無山は、『けなしやま』と呼んでいたのだ。
『毛無山』とも書くこともある。

人々の物の見方によって、漢字が選ばれる。 人それぞれの思いを抱いて。

大幡からの三つ峠


三つ峠山中の石造物に、大幡からの奉納者も多い。

現在では、そのことを知る大幡の方は少ない。

ここから眺めると、八十八大師への道は、あの尾根かこちらの尾根しか考えられない。

昔の人々が、わざわざ困難な道を選ぶとは考えられない。

現在の人たちは、なぜ現在の道にこだわるのだろう。

道があるから人が歩くのではなく、人が歩いたところが道になることに気づきたい。


先日作成したCD(未完成であるが)をあの人とこの人に渡す。 たまたまT大の先生にも会うことができた。 その先生にも渡しておいた。

これから何がおこるのだろう。 梶井基次郎の檸檬の雰囲気である。 心が躍っている自分。 …。 何もおこらない。
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2010年1月28日木曜日

修行していたのは念仏行者、三つ峠の修行僧とは?


南無阿弥陀仏。

三つ峠には、『南無阿弥陀仏』の碑が多く存在する。

町で設置した古い解説板にも『念仏』の宗教であることが書かれている。

幕末の三つ峠には、天台宗弾誓派の空胎上人とその弟子たちが石碑を設置している。

空胎上人は、弾誓上人の教えを広めようとしていた。

念仏の修行僧としてしまうと、意味が異なってしまうのではないだろうか?

『南無阿弥陀仏』だからと言って。 注意が必要である。

2010年1月27日水曜日

反省...自分をみつめて

間違っているというのは、本当か?
よくよく考えてみれば、私の起点は幕末時を見ているにすぎない。
幕末時にどのようであったのかであって、
それ以外が間違いなどというのは間違いであることに気づく。

幕末があり、明治になり激変(場合によっては反転)があり、
大正、昭和初期においてさらなる変化。
それらを踏まえて現在がある。

では、幕末以前はどうであったのかは、
直線の延長での推測。
さらに進めば、何もない時代。 山も存在せず、人類もいない。

2010年1月24日日曜日

三つ峠のお話のCD


とりあえずスライドショーのCDを作っておいた。
先日のお話の際につけえ加えたもの。

解説の部分がないのが欠点。
改良を加えたら、町の方に見てもらおうと思う。

このままでは、お話になっていない。

御巣鷹山、開運山、木無山の総称を三つ峠と言っている人は、結局だれもいないようですね。
誰かが言っているということを言うだけで。
その地に住む人は何も知らずに、よそから来る人たちが勝手に言い出したと思ったら、いつのまにか土地の人たちの中から口にでてしまったりして。
地図の中には境界を間違えているものがあるのも、面白い。 西桂町の境界を見てみてください。
A社の地図とB社の地図。
世の中とはこういうものだということに、ここまで生きてきてやっと気づいた。

三つ峠と富士山

三つ峠に関わる名称や石造物を見ていくと、
富士山を意識しているようには見えない。
三つ峠自身を意識しているように感じる。
三つ峠から富士山を拝むのではなく、
富士山から三つ峠を拝むように意識されているように思う。
確かに、富士山は偉大である。
人々は富士山を目指す。
多くの人々が三つ峠を意識していたはずである。

信じられるものは何か?

数年前のこと。 夏狩りの滝。
写真入りの二つの名称が逆になっているとの地元の方の声。
本を片手に訪れる現実。
訪れる方は、さらに情報を流している。
そこに住む人たちも、いずれは本の方が真実であると思うようになってしまう。

現実に見たままを自分が感じるのはどうなのか。
自分が感じるものを表現してみたい。
他人がどう言っているのではなく、自分の素直な気持ち。

でも、本に書いてあるっていうのは強い。
結局気になってしまうのである。

甲斐国志の記述を気にしている自分も、それをうのみにしていることになってしまう。
とすれば、同じように感じることができるのかが問題だ。

ここは、独り言の場所なのである。 my blog.

三つ峠と開運山

三つ峠が御巣鷹山、木無山との総称ではないことは、以前より問題視されているようですね。
従って、この件については勘違いされている方が時を経て気づくことになりそうです。

しかし、三つ峠が開運山であることを説明されているのは、どなたかいますでしょうか?
いらっしゃるようであれば、ご連絡いただけるとありがたいのですが。
また、その情報をご存知の方があればよろしくお願いいたします。

私は妙見信仰のために呼ばれるようになったと考えています。

三つ峠が富士山信仰のおまけのように考えられている方もいるようですので、
その面からの説明できるのであればそこも考えてみようと思います。

一つ考慮できることがあるのですが、春になれば根拠となるデータが得られるかもしれません。

空胎上人以後の信仰と、以前の信仰。 身近すぎてあまり掘り起こされていなかった三つ峠の歴史。
T先生によれば、それらをまとめている方がいるようなので、それがどこまで解明するのか興味があります。
私にもまとめるように言われたのですが…。 とりあえず、スライドショーを引き続き作成しておこうと思います。 自分では、結構満足しているのですが。 柄杓流れと開運山。 このことに気づいている方がいないように思うのです。 私だけが知っている、私自身の思い込み。

2010年1月23日土曜日

甲斐国志から、三つ峠の由来をもう一度おさらい


三つ峠山

河口村分の八町山より峰続き東南1里あまり。

この山に至る峰は、奇岩峨々として、三峰に秀ず。

故に、三つ峠という。

岩上に小祠あり、三つ峠権現という。

また、船に似たる岩あり。

(船に似た岩は崩落したとのことで、現在ありません。岩上の小祠も今は存在しません。)




この件は多くの方が述べられていますが、三つ峠の基本となりますので再度記載しておきます。

三つ峠が富士山眺望のための高台ではないことも感じ取ってみてください。

信仰と岩との関係を感じてください。 御巣鷹山と木無山とは、性質が異なります。

三つ峠が開運の山であることを感じてみてください。

(かつて、私は古文書に記載がないことから開運山を否定していました。 しかし、そこは訂正いたします。)

無理やり三つ峠のスライドを見てもらいました

ミュージアム都留にでかけると、郷土史家のT先生がいた。
先日作成したスライドショーを見てもらう。
三つ峠と北斗七星の信仰について。
三つ峠が開運山であることが正しいことについて。
三つ峠への古道について等等。
結構よろこんでいただけたように思う。
半ば押し売り的でもあったのだが。

倉見山への登山道ができたらしい


富士山・富士五湖トレッキングNAVI(富士山・富士五湖観光圏整備推進協議会)より

倉見山部分の地図を拝借いたします。

先日、関係者の情報によりますと

さすの平からの倉見山登山道が開通したらしい。

但し、案内板の設置はまだとの事。

西桂からの倉見山登山道は、以前からいくつか存在する。

倉見山への道は、整備されていない素朴な山道であったことに良さをかんじていた。

従って、地図を持ち現在地を確認しながら登らなければならなかった。

高速道路は、入ってしまえば後はインターから降りるだけで目的地に到着してしまう。

まあ、この道を登り三つ峠を眺める方が増えれば、 それも良いのではないか。

私は、さすの平から倉見山頂への部分は歩いたことはない。 今度、歩かせていただこうと思います。

三つ峠は、開運山か?(2)

富士山を眺めることのできることから「開運山」だと思われている方もいるのでしょうか。

それは、それで良いのかもしれません。 その方にとっては、開運であるのだから。

しかし、富士山を眺められる場所というのは三つ峠山頂だけではない。

数えることができません。

三つ峠は、開運山なのか?

三つ峠は、開運山なのです。 三つ峠であるから、開運山なのです。

観て、歩いて、実感(楽しむ)する三つ峠なのです。

朝日あたる三つ峠、夕日のあたる三つ峠。

登っていたのでは決してわからない三つ峠です。

このところ、生活のリズムが狂い、眠い私。

なぜ、三つ峠を御巣鷹山と木無山との総称としてしまうのか?



どこのパンフレットにも、三つ峠について

御巣鷹山、開運山、木無山の総称などと

書かれているものだと思っていました。

しかし、そんなことは書かれていないのですね。

富士山・富士五湖観光圏整備推進協議会  http:/www.fujigoko-net.jp/

の富士山・富士五湖トレッキングNAVIにおいても

三山の総称などとの解説はないようです。

きっと、三つ峠の山頂まで行ったら

「御巣鷹山、木無山まで足をのばしてみたら」

というような発想から生まれてきたのではないでしょうか?

山頂を制覇するのを目的とする考えが生まれてきてから。

もともと、三山の総称などとも言っていないのかもしれません。 我々が勝手に想像している虚像。

2010年1月22日金曜日

救い

あれこれ書いてきての悩みは、

このブログを訪れる方に不愉快を与えているのではないかとの不安である。

偶然、ブログを見ていただいた方にお会いすることができた。

数少ない訪問者のお一人。 

感謝しています。 元気をいただきました。

三つ峠の山頂に立つことは少なくなりました。

観て楽しい三つ峠の三つの峰であります。

三つ峠は、開運山か?





三つ峠が開運山であることを疑っていた。

その記載が古文書になかったからである。

しかし、三つ峠の信仰からみれば開運山であることは正しい。

では、開運山とは三つ峠の三つの峰のうち現在の山頂の位置であるのか?

本来は、東峰であるのが正しいと思われる。

ただし、三つ峠自身が三つの峰を持つことを認識している場合のことである。

三つ峠を開運山と書いてあるのではなく、

三つ峠を開運山と感じている。 これは、正しい。

『三つ峠登山が10倍楽しくなる』冊子のこと



西桂町が発行する冊子である。

『三つ峠登山が10倍楽しくなる』

『観て 歩いて 感じて楽しむ』

ここには、御巣鷹山、開運山、木無山の総称が

三つ峠であるとは、一言も書かれていないようである。

観て、歩いて、感じた結果であると思う。

2010年1月16日土曜日

せの海と西湖、そして河口湖



甲斐国志における西湖の記述である。

 『せのうみ』と言ったが、今では『せいのうみ』と言うとのこと。

 さらに、『せのうみ』と呼ぶようになったのだと言う。

今では、『さいこ』と呼んでいる。

伊能忠敬の地図では、川口湖を『仙湖』と記している。

『せんのうみ』とは『せのうみ』のことで、

西湖と間違えていたのではないだろうか?

三つ峠を御巣鷹山、開運山、木無山というのは、


何をもってそのように判断したのだろう。

三つのピークに見えないものを、

みっつのピークとする根拠。

三つ峠の姿を見ていただきたい。

三つ峠は、それ自身が三つの峰を持つ。

平面上の地図でなく、実物を見たとき、

三つ峠を勘違いすることはないはずである。

三つ峠の由来。

三つ峠の石造物


幕末に建てられた石造物。

激動の時代に民衆は、何を考えたのか?

三つ峠山は、それ自身が三つの峰を持つ。

御巣鷹山、木無山は含まれない。

人々の目的は、山頂の踏破ではなかった。

以前にとった写真をながめていたら、

一度も調査をされていない石造物であることが判明。
激動の時代の、この地の竜馬伝。
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2010年1月9日土曜日

幕末の三つ峠


川口村絵図の一部である。

三峯(三つ峠)と毛無山(木無山)、御巣鷹山が描かれている。

総称とする見方は、ここにはない。

昭和になっての総称とする三つ峠の見方には、

意図的なものがあったのだろうか?



昨年より、柄杓の意味を考えていた。 考えているうちに、当然のような気がしてきた。

当たり前を証明するには、何を述べればよいのかが解らないでいる。

三つ峠が御巣鷹山と木無山の総称とは言えない。(総称とするのは誤りである)

なぜなら、総称とする記述が何一つ見つからないからである。
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