2009年10月19日月曜日

空胎上人の蔵?




鎧の岩ではないと思う。

空胎上人の蔵?

ここの岩の隙間は、

三方に開いていて

風通しがよいのである。

本社(中峠)、東峠




親知らずにたどり着く前に見上げてみよう。

三つ峠の本社(中峠)と東峠がよく見える。

東峠は日の早いうちには、顔に見える岩である。

目度内の八十八大師




八十八大師のその場所には、

八十八体の弘法大師はない。

いくつかは、登山道の上に転がっていて

私たちは、知らずに足を置いている。

石の質が異なるので、見るとわかる。

赤いおべべを不思議そうに眺めて通り過ぎて行く。

憩いの森からの三つ峠




ここから眺める三つ峠は、

三つ峠らしい。

三つ峠自身が、三つの峰を持つ姿である。

2009年10月17日土曜日

いつから開運山なのか?


6月の写真です。

三つ峠が三つ峠らしいのは、

西桂でみる三つ峠なのです。

昭和10年ごろの照会文までは、

先端の岩が三つであことから

『三つ峠』であると説明されています。

昭和20年以降のものを捜せば、

御巣鷹、開運、木無に変えられたことを確認できると思われます。

そのあたりの資料を捜してみたいものです。 いつ、だれが、何のために。
Posted by Picasa

2009年10月13日火曜日

zenrin地図の『三つ峠』と『木無山』

『三つ峠』と『木無山』の位置について連絡をしました。

調査、確認をしていただけるとのこと。

町で使用している地図においては、
隣接地域との境界が異なることを連絡したことがある。
その後、書店にて西桂町の境界を見た所
同様に間違っているものが存在した。

山の名称においても『大久保山』と称する山は、
山岳地図からが根拠であるようであるが、
地元の人々は、そう呼んではいない。
また、近接の土地所有者においても呼んでいない。
山岳地図以外でそのように呼んでいた歴史がない。

以前、藪の中を歩いていたところ、
歴史を研究する職業の方に遭遇した。
近代登山以前において、
無理に山に名をつけることはなかったとのこと。

名前がついていたほうが都合のよい場合がある。
だが、この地に住むものが知らないまま付けられのも
なんとも悔しい限り。

三つ峠のどこを目指したか?

八十八大師のあるところは『めどうち』と呼ばれる。
『目処(目途)』の場所である。

ここは、都留市宝、大幡、夏狩から東尾根をつたう合流地点である。
御坂方面から来るとすれば、八丁峠、御巣鷹山を超える。
東峯をまいて、お宮岩の上を通り『めどうち』へ到着。

都留市高畑からであれば、御巣鷹山へ出て、同じ道をたどる。

宝、大幡、夏狩からは、お宮岩の下のコースをたどったのではないだろうか。

八十八大師より西へ、神鈴権現、清瀧不動へも続くのであるが、
『めど』の地である八十八大師の場所が特別な場所であったのであろう。

この場所は、三つ峠の日暮れ、西日が最後まで残る場所なのである。
『めど』の場所に空胎上人を供養する碑が存在する。

八十八大師の尾根をそのまま上がるコースは、
岩の隙間を通る必要があるので、『めどうち』への道ではなかったのではないか。

今回のお宮岩の上を歩いてみて、そう思う。
200年前の人々が目指した三つ峠の場所。

2009年10月12日月曜日

三つ峠の三つの峯



三つ峠の中峯(本社)、東峯(水雲山)を紹介しておく。
現在は、写真のような建造物 がある。
そして、もう一つは三つ峠山頂とする東峯。

これらの三つの峯を、
本来、『三峯』としていた。
御巣鷹山でもなく、木無山でもない。

接近した三つの飛び出たところである。

三つ峠の『開運山』はいつから?

昭和16年の『三ツ峠 史跡と伝説の地』(三ツ峠会)がある。
この中にも『開運山』の名称は一切ない。
『三つ峠は、その峰の岩が三つに分かれているので三峠という』との説明がある。
古くは『仙泉山』と呼ばれたことが書かれている。
昭和初期の三つ峠の調査では、
『三峯山』、『神鈴峯』、『水峠』が記されている。

御巣鷹山、開運山、木無山の三山の総称とする考えは、
その後に発生したことになる。

近代登山により、『大久保山』(三つ峠の東尾根のピーク)が名づけられたころに
三つ峠の『開運山』の名称が用いられるようになったのであろうか。

2009年10月11日日曜日

お宮岩上からの西桂


お宮岩の上には祠はありませんでした。

実は、久しぶりの三つ峠。

バテました。
東沢の上方。
地蔵横道。

今、山の中には、コトッ、コトッ という音が聞こえます。
どんぐりが落ちて行きます。
リスが道を横切りました。

お宮岩から東峰へ


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目度内からお宮岩へ向かう。
お宮があったという。
岩の上には何もなし。
御巣鷹山方面の尾根に向かう横道の発見。
獣の通った足跡あり。
尾根に出た後、東の峰へと向かう。

三つ峠の三峰(三つ峠の山頂はどこ?)


より大きな地図で 三つ峠の三峰 を表示
三つ峠の三つの峰を歩いてきた。

それは、三つ峠そのものの三つの峰のことであり
御巣鷹山、開運山、木無山のことではない。

ところが、googleで使用しているZENRIN地図では、
開運山とされているところが、『木無山』となっている。
また、三つ峠の東峰が『三つ峠山』となっている。
知りませんでした。
私は、木無山の地を踏んでいないのに…。

---------- 三つ峠に登られた方へ ----------
皆さんが登られたのは、この地図では
『木無山』ということになってしまいます。
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私が行ったのは、
三角点のある西峰(現在、開運山と呼ばれる三つ峠の山頂)
さらに、中峰(本社:ほんじゃ)、東峰(甲斐神鈴峰之図では水雲山)である。

三鈷杵(さんこしょ)

三つ峠を眺めると、
密教の儀式で使用される『三鈷杵(さんこしょ)』と呼ばれる
金剛杵という法具に似ている。

三つ峠には大日如来がある。
だるま石に刻まれている『アーク』は大日如来である。

2009年10月10日土曜日

『勧進杓』とは?

東大の大仏の修復再建のために公慶上人は、勧進杓を手に庶民に寄進を勧めたという。
『柄杓』を手にして人々の前に差し出すのである。
差し出された杓の器の中に、布施をいれる。

今この時期、夕刻、三つ峠の山の上には、
勧進の『杓』が差し出されている。

『釈迦流れ』でなく、やはり『柄杓流れ』であるほうが辻褄が合う。

2009年10月5日月曜日

『柄杓流』は、『釈迦流れ』か?

『寺野』という地名があります。大竹の沢を『仏の沢』と呼びます。寺野には寺があったのですが、流されたという言い伝えがあります。この寺の仏像が流されたのでしょうか。柄杓流川の下流、夏狩において仏像を拾ったという言い伝えがあります。これをもって『釈迦流れ川』ということが明治初期に書かれています。江戸期における村絵図には、『ヒシャクナガレ』と書かれています。仏の沢は、姥捨ての道であるとの話もあります。現在では、人が入ることはなく不気味な感じもします。沢もいくつかに分かれていていっそう不安になります。 しかし、この道はかつて甲州街道へ向かう重要な交易路でした。多くの人々が行き交っていました。柄杓流れは、釈迦流れだったのでしょうか。



三つ峠の地名

三つ峠南面、西桂地区の地名です。
 

2009年10月4日日曜日

散策路の行程図


西桂町富士見散策路


より大きな地図で 西桂町富士見散策路 を表示

西桂中学校の裏山に富士見散策路があります。
一周一時間かかるコースです。

アップダウンありで、結構楽しめます。
西桂中学側から登りますと、
720m付近で富士山の眺めが良いです。
810mまで登り、一騎に下り。
この下りは、結構つらいかもしれません。

2009年10月2日金曜日

三つ峠の呼び名のこと

三つ峠周辺の山、沢の名前。
昭和初期の登山地図。

ところが、地図に記載されている地名を
この地の住民は知らない。
『大久保山』などは、誰もそう呼ばない。
沢の名前は知られるようになった。

いったい『開運山』とは、
いつから誰が呼ぶようになったのだろう。
私は、それを見つけていない。

三つ峠の山を生活の場としてきた方たち。
この方たちの全く知らない世界が、
すでに一般的と思われる時代となっている。

時代の波というものは、昔を浚っていく。
明治への大きな波と、昭和の波。
こうだと言う者が多くなれば、
それがその時代の真実に。

結局真実というものは、
どの時点から見ているのかをはっきりしておかねばならない。

私の場合は、200年前位のことを起点としてみようと思う。

2009年10月1日木曜日

三つ峠の信仰について

三つ峠の信仰は、空胎上人以前と以後で異なる。
元来、三つ峠は真言密教の山としての信仰が存在した。
空胎上人は天台宗の僧であり、以前の信仰を継承しながら
弾誓上人(木喰僧)の教えを持ち込んだのだった。
三つ峠の石造物は、そのほとんどが空胎上人以後のものである。

三つ峠は、富士山を拝むための山ではない。
(そういうものもあったのかもしれないが)
石造物からみると、三つ峠そのものを信仰の対象としていたことがわかる。