2009年12月8日火曜日

河口湖に昇る柄杓の姿


昇るところが見たくて

夜中の12時に河口湖へ。

柄杓の星が昇る。

湖に吸い込まれた柄杓が、

天に飛び出したのだ。

柄杓が立つ。

開運の星。

三つ峠は開運の山なのである。
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2009年12月5日土曜日

三つ峠にも雪

今朝の三つ峠は、白かった。

その後は、雨だったのでしょうか?

私の考えも一つ訂正をしなくてはならないかもしれません。

『開運山』の名称のこと。

古文書では、今のところ見た経験がありません。

しかし、『開運山』でも良いのかもしれないという発想が生まれました。

『天上山』が、なぜ天上なのか?

すると、開運山は、開運でもよいのではという考えからです。

しかし、御巣鷹、木無、開運が三つ峠であるとは別の話。

『開運山』の名称を認めることによって、

いくつかの新しい説明ができるようになります。

今朝の三つ峠は雪、

三つ峠をもう少し別の角度から眺めてみようと思います。

2009年11月30日月曜日

船津の妙見社


北斗七星を祀った船津の妙見社。

ここから、北斗七星を眺めていたのだ。
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2009年11月29日日曜日

筒口神社と三つ峠


筒口神社にある仏像。

智拳印を結ぶ金剛界大日如来である。

三つ峠のだるま石は、胎臓界の大日如来。

密教との神仏混淆。

妙見社は、筒口神社と離れたところの高台に存在する。

柄杓は、本当に河口湖の湖底に吸い込まれたのかもしれない。

吸い込まれた柄杓は、天に昇るのである。

三つ峠の山の上から。

ここからは、三つ峠山頂そのものを見ることはできない。

手前の尾根、木無山が見えるのみである。 木無山の向こうの三つ峠の存在を知っていたのだ。

甲斐国志の柄杓流の伝説は、ありえないデタラメではなかったのだ。

我々が目にする自然現象を述べているのである。
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2009年11月28日土曜日

河口湖と三つ峠と北斗七星と




河口湖の筒口神社。 柄杓は、このあたりで吸い込まれ

三つ峠をくぐり抜け、柄杓流川へと出てきたと伝えられる。

船津、筒口神社から眺めると

北斗七星は、三つ峠(手前の木無山)から昇る。

船津の住人は、星を見ていたのだ。

三つ峠から北斗七星が昇ることを知っていた。

この辺りでは三つ峠は目立つ山ではないのだが、

星の昇る特別な山として見ていたのだろう。
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2009年11月15日日曜日

さくら公園の桜


さくらが咲いています。

山祇神社の隣です。
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水が多いですね


久しぶりの晴れ。

柄杓流の水が多い。

水は三つ峠からの水。

靴下まで、

水がしみてきました。
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2009年10月19日月曜日

空胎上人の蔵?




鎧の岩ではないと思う。

空胎上人の蔵?

ここの岩の隙間は、

三方に開いていて

風通しがよいのである。

本社(中峠)、東峠




親知らずにたどり着く前に見上げてみよう。

三つ峠の本社(中峠)と東峠がよく見える。

東峠は日の早いうちには、顔に見える岩である。

目度内の八十八大師




八十八大師のその場所には、

八十八体の弘法大師はない。

いくつかは、登山道の上に転がっていて

私たちは、知らずに足を置いている。

石の質が異なるので、見るとわかる。

赤いおべべを不思議そうに眺めて通り過ぎて行く。

憩いの森からの三つ峠




ここから眺める三つ峠は、

三つ峠らしい。

三つ峠自身が、三つの峰を持つ姿である。

2009年10月17日土曜日

いつから開運山なのか?


6月の写真です。

三つ峠が三つ峠らしいのは、

西桂でみる三つ峠なのです。

昭和10年ごろの照会文までは、

先端の岩が三つであことから

『三つ峠』であると説明されています。

昭和20年以降のものを捜せば、

御巣鷹、開運、木無に変えられたことを確認できると思われます。

そのあたりの資料を捜してみたいものです。 いつ、だれが、何のために。
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2009年10月13日火曜日

zenrin地図の『三つ峠』と『木無山』

『三つ峠』と『木無山』の位置について連絡をしました。

調査、確認をしていただけるとのこと。

町で使用している地図においては、
隣接地域との境界が異なることを連絡したことがある。
その後、書店にて西桂町の境界を見た所
同様に間違っているものが存在した。

山の名称においても『大久保山』と称する山は、
山岳地図からが根拠であるようであるが、
地元の人々は、そう呼んではいない。
また、近接の土地所有者においても呼んでいない。
山岳地図以外でそのように呼んでいた歴史がない。

以前、藪の中を歩いていたところ、
歴史を研究する職業の方に遭遇した。
近代登山以前において、
無理に山に名をつけることはなかったとのこと。

名前がついていたほうが都合のよい場合がある。
だが、この地に住むものが知らないまま付けられのも
なんとも悔しい限り。

三つ峠のどこを目指したか?

八十八大師のあるところは『めどうち』と呼ばれる。
『目処(目途)』の場所である。

ここは、都留市宝、大幡、夏狩から東尾根をつたう合流地点である。
御坂方面から来るとすれば、八丁峠、御巣鷹山を超える。
東峯をまいて、お宮岩の上を通り『めどうち』へ到着。

都留市高畑からであれば、御巣鷹山へ出て、同じ道をたどる。

宝、大幡、夏狩からは、お宮岩の下のコースをたどったのではないだろうか。

八十八大師より西へ、神鈴権現、清瀧不動へも続くのであるが、
『めど』の地である八十八大師の場所が特別な場所であったのであろう。

この場所は、三つ峠の日暮れ、西日が最後まで残る場所なのである。
『めど』の場所に空胎上人を供養する碑が存在する。

八十八大師の尾根をそのまま上がるコースは、
岩の隙間を通る必要があるので、『めどうち』への道ではなかったのではないか。

今回のお宮岩の上を歩いてみて、そう思う。
200年前の人々が目指した三つ峠の場所。

2009年10月12日月曜日

三つ峠の三つの峯



三つ峠の中峯(本社)、東峯(水雲山)を紹介しておく。
現在は、写真のような建造物 がある。
そして、もう一つは三つ峠山頂とする東峯。

これらの三つの峯を、
本来、『三峯』としていた。
御巣鷹山でもなく、木無山でもない。

接近した三つの飛び出たところである。

三つ峠の『開運山』はいつから?

昭和16年の『三ツ峠 史跡と伝説の地』(三ツ峠会)がある。
この中にも『開運山』の名称は一切ない。
『三つ峠は、その峰の岩が三つに分かれているので三峠という』との説明がある。
古くは『仙泉山』と呼ばれたことが書かれている。
昭和初期の三つ峠の調査では、
『三峯山』、『神鈴峯』、『水峠』が記されている。

御巣鷹山、開運山、木無山の三山の総称とする考えは、
その後に発生したことになる。

近代登山により、『大久保山』(三つ峠の東尾根のピーク)が名づけられたころに
三つ峠の『開運山』の名称が用いられるようになったのであろうか。

2009年10月11日日曜日

お宮岩上からの西桂


お宮岩の上には祠はありませんでした。

実は、久しぶりの三つ峠。

バテました。
東沢の上方。
地蔵横道。

今、山の中には、コトッ、コトッ という音が聞こえます。
どんぐりが落ちて行きます。
リスが道を横切りました。

お宮岩から東峰へ


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目度内からお宮岩へ向かう。
お宮があったという。
岩の上には何もなし。
御巣鷹山方面の尾根に向かう横道の発見。
獣の通った足跡あり。
尾根に出た後、東の峰へと向かう。

三つ峠の三峰(三つ峠の山頂はどこ?)


より大きな地図で 三つ峠の三峰 を表示
三つ峠の三つの峰を歩いてきた。

それは、三つ峠そのものの三つの峰のことであり
御巣鷹山、開運山、木無山のことではない。

ところが、googleで使用しているZENRIN地図では、
開運山とされているところが、『木無山』となっている。
また、三つ峠の東峰が『三つ峠山』となっている。
知りませんでした。
私は、木無山の地を踏んでいないのに…。

---------- 三つ峠に登られた方へ ----------
皆さんが登られたのは、この地図では
『木無山』ということになってしまいます。
------------------------------------------

私が行ったのは、
三角点のある西峰(現在、開運山と呼ばれる三つ峠の山頂)
さらに、中峰(本社:ほんじゃ)、東峰(甲斐神鈴峰之図では水雲山)である。

三鈷杵(さんこしょ)

三つ峠を眺めると、
密教の儀式で使用される『三鈷杵(さんこしょ)』と呼ばれる
金剛杵という法具に似ている。

三つ峠には大日如来がある。
だるま石に刻まれている『アーク』は大日如来である。

2009年10月10日土曜日

『勧進杓』とは?

東大の大仏の修復再建のために公慶上人は、勧進杓を手に庶民に寄進を勧めたという。
『柄杓』を手にして人々の前に差し出すのである。
差し出された杓の器の中に、布施をいれる。

今この時期、夕刻、三つ峠の山の上には、
勧進の『杓』が差し出されている。

『釈迦流れ』でなく、やはり『柄杓流れ』であるほうが辻褄が合う。

2009年10月5日月曜日

『柄杓流』は、『釈迦流れ』か?

『寺野』という地名があります。大竹の沢を『仏の沢』と呼びます。寺野には寺があったのですが、流されたという言い伝えがあります。この寺の仏像が流されたのでしょうか。柄杓流川の下流、夏狩において仏像を拾ったという言い伝えがあります。これをもって『釈迦流れ川』ということが明治初期に書かれています。江戸期における村絵図には、『ヒシャクナガレ』と書かれています。仏の沢は、姥捨ての道であるとの話もあります。現在では、人が入ることはなく不気味な感じもします。沢もいくつかに分かれていていっそう不安になります。 しかし、この道はかつて甲州街道へ向かう重要な交易路でした。多くの人々が行き交っていました。柄杓流れは、釈迦流れだったのでしょうか。



三つ峠の地名

三つ峠南面、西桂地区の地名です。
 

2009年10月4日日曜日

散策路の行程図


西桂町富士見散策路


より大きな地図で 西桂町富士見散策路 を表示

西桂中学校の裏山に富士見散策路があります。
一周一時間かかるコースです。

アップダウンありで、結構楽しめます。
西桂中学側から登りますと、
720m付近で富士山の眺めが良いです。
810mまで登り、一騎に下り。
この下りは、結構つらいかもしれません。

2009年10月2日金曜日

三つ峠の呼び名のこと

三つ峠周辺の山、沢の名前。
昭和初期の登山地図。

ところが、地図に記載されている地名を
この地の住民は知らない。
『大久保山』などは、誰もそう呼ばない。
沢の名前は知られるようになった。

いったい『開運山』とは、
いつから誰が呼ぶようになったのだろう。
私は、それを見つけていない。

三つ峠の山を生活の場としてきた方たち。
この方たちの全く知らない世界が、
すでに一般的と思われる時代となっている。

時代の波というものは、昔を浚っていく。
明治への大きな波と、昭和の波。
こうだと言う者が多くなれば、
それがその時代の真実に。

結局真実というものは、
どの時点から見ているのかをはっきりしておかねばならない。

私の場合は、200年前位のことを起点としてみようと思う。

2009年10月1日木曜日

三つ峠の信仰について

三つ峠の信仰は、空胎上人以前と以後で異なる。
元来、三つ峠は真言密教の山としての信仰が存在した。
空胎上人は天台宗の僧であり、以前の信仰を継承しながら
弾誓上人(木喰僧)の教えを持ち込んだのだった。
三つ峠の石造物は、そのほとんどが空胎上人以後のものである。

三つ峠は、富士山を拝むための山ではない。
(そういうものもあったのかもしれないが)
石造物からみると、三つ峠そのものを信仰の対象としていたことがわかる。

2009年9月30日水曜日

三つ峠の掛け軸に北斗七星

北斗七星の描かれた掛け軸が存在していた。
空胎上人に関する資料の中にあったのだ。
古文書にある三つ峠の東峠の北辰妙見。
そして、北斗七星の描かれた掛け軸。

これで、三つ峠と北斗七星の関係が明らかになった。

三つ峠から流れ出る『柄杓流川』が、
北斗七星と関係があることは疑いない。

三つ峠はそれ自身が三つの峰を持つことから三峠と呼ばれることが
古文書に記されている。

御巣鷹、開運、木無の総称であるとの古文書は存在しない。
三つ峠駅から眺める三つの峰をそれらであると思われている方が多い。
それは、西峠、本社、東峠の峰。
御巣鷹山、木無山とは別のものである。
開運山とされる頂上は屏風岩の上のことで西峠である。
三角点はそこにある。 
開運山の名称も古文書には見当たらない。

北斗七星の掛け軸見つけた。 久しぶりの成果である。

2009年6月12日金曜日

三つ峠へ登りましたか?

やっと、三つ峠も静かになったようです。
でも、やっぱり、
「御巣鷹」、「開運」、「木無」で三つ峠って説明したんだろうか?
三つ峠が単独で三つだってことは、
これで、またも気づかないまま時代を経ていくことになる。
三つ峠が三つで、
「御巣鷹」、「開運」、「木無」ではないことに気づかないまま。

地球の温暖化。 ハイブリッド車、電気自動車、
太陽光発電、風力発電。
各戸での電気の節約。
これで、CO2の削減がどれだけかと計算してくれる。

世の中の夜間中にこうこうとともる電気を節約したら
どれだけの削減になるのかを説明してくれる人はいない。

ほんの少し前の星は綺麗で、北斗七星は三つ峠の上に
もっとくっきりと輝いていたに違いない。

200年前にも、「昔の言い伝えではあるが…」などと書かれて。
1000年の昔の人だったら、気がついていたのであろうか?

ここのところ、ただ眺めるばかり。

2009年5月26日火曜日

三つ峠への目線の変化

なぜ、北斗七星にこだわる必要があるのか?

古文書にある「北辰妙見」の記述。
「柄杓流川」の本当の由来。
古絵図に記されている「水雲山」。なぜ、右側の峰なのか?

三つ峠の三つの峰を三つ峠と呼ばず、
御巣鷹、木無を含むようにした理由な何なのか?

古文書にはない「開運」の由来は、どこからか?

三つ峠を見る目線の変貌。
祖先が眺めていたものと我々が眺めているものは、
いつから変わってしまっただろうか?

2009年5月23日土曜日

三つ峠と北斗七星



山の形がわかりませんので、

合成してみました。
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2009年5月1日金曜日

柄杓の星の信仰は、極めて自然


三つ峠グリーンセンターから三つ峠山頂への登山道は
方位角が320度。
山頂への仰角は、20度ほど。

したがって、北斗七星が三つ峠の上に見えるとき
この登山道を歩くと
きれいに三つ峠山頂の真上に位置します。
三つ峠の山頂に柄杓部分が沈んでいきます。

三つ峠と北斗七星の信仰は、極めて自然に発生したはずです。

また、富士山信仰においては、三つ峠は北に位置する目立つ山。 北極星信仰へと進みました。

三つ峠東峰に北辰妙見菩薩が祀られたのは、
極めて自然な発想なのでした。

柄杓流川は、やはり、北斗七星から名づけられたことがわかります。

改めて感動してしまいました。

写真は、憩いの森にて午前2時に撮影しました。 3時には柄杓は三つ峠の山に入ってしまいます。
午前4時には、空は明るくなってしまい柄杓の星も消えてしまいます。 

桜公園では、子犬ほどの大きさの狸が5,6匹いました。

ほんの少し前の時代、夜行列車で来た登山者たちは、暗いうちから山に登ったそうです。
さらに前の時代、夜明け前から山に入っていた人たち。
こんな姿を、極めて自然に眺めたことでしょう。
柄杓の星の信仰は、極めて自然に発生したことでしょう。