2010年4月30日金曜日

大幡の三つ峠は、水峠で水雲山

『郡是の川合信水先生』(大塚榮三著、昭和6 年発行、岩波書店)には三つ峠の呼び方を『みづとうげ』としている。
大幡の権現様の三峠もそう呼んでいたのではないか。
大幡川は、柄杓流川より水量が多いように思う。
三つ峠を『水』と考えていたのは大幡方面であり、
西桂方面では『三つの岩』と見ていたのではないだろうか?
大幡の人々が三つ峠南面岩下に多くの観音菩薩を奉納していることに納得する。
『水雲山』とは三つ峠山のことである。
三つ峠とは、『水峠』であり『三(都)峠』でもあるのである。
幕末の一時期の人々の行動から推測した結果である。
いずれにしても御巣鷹山、木無山への関係はない。

数少ない我がブログ読者へ(三つ峠を愛する者)

『三ツ峠の民俗と信仰』(平成4年3月 西桂町教育委員会)を非常に参考にしていただいている。膨大な資料を集めてあります。
しかし、注意したいのは三つ峠山中における石造物に関しては
『西桂町の石造物』(昭和56年3月 西桂町教育委員会)の調査をそのまま掲載しており、新たな調査は行われていなかったようです。後者の誤りを前者はそのまま引き継いでいます。
(批判ではありません、ごめんなさい)
山中の調査は現場での時間が限られますし、健脚な調査員の確保、予算の問題などから仕方のないと諦めなければならないかもしれません。
現実として昭和57年以降、山中の調査が進んでいないことを知る必要があります。 平成4年時においてすでに埋没していた可能性もあります。
私においては三つ峠に何の気なしに登っておりましたので、
  • 屏風岩下の『浄土三部妙典塔』の踏みつけの問題
  • 白雲荘裏の『不動尊』の埋没の問題
  •  八十八大師のお大師様の破片の登山道への落下、踏みつけの問題
だけが気になっていました。(現在も危惧しています)
八十八大師の『八十八体供養塔』、『空胎上人の墓』については登山道から歩行に問題がない位置に移動していただいき、さらにオモテ面を上にしていただいたことには満足しています。
寝かせてあることについても、直立させたとしても倒れる可能性が高いことから納得できます。(空胎上人の墓については正立させてあげたいとは思いますが…仕方がありません)
私は、
  • 神鈴権現の『仁王経塔』の存在
について確認をしておりません。
ご確認しております方がいましたら、差し支えないなければ教えていただけませんでしょうか?


今後の活動について
上記のような状況を考え、石造物の現在の確認(写真、設置位置)をしていきたいと思っています。
新たな9体の観音像を確認していることは、本ブログで申し上げました。 
どなたか、ご賛同、ご協力がいただけるとありがたいのですが。


三つ峠の山は面白い。近くの山でありながら信仰の山であり、近くの山であることでそのことを意識しなくなってしまった山。
先人たちの三つ峠にたいする思いがどんなものであったのか、
自分の心で感じ取ってみたい。(と思う)
先人たちが後世の我々へ伝えたかった声があるはずだ。(と思う)
批判のあびることがないよう注意し、マイペースでささやかに進んでみます。 (最近、気が弱くなることがある)

2010年4月29日木曜日

三つ峠の信仰の謎

お大師様や観音様の石造物。
一体、重さはどれくらいあるのでしょうか?
里にあるものを計れば推測できるのでしょうが、
計ったことはありません。


それを運びあげるとしたら、どのように背負ったのでしょう?
かごに入れて運んだのでしょうか?
背負子にくくり付けて運んだ方が揺れがない。
実際に行ってみると、どんなに大変かがわかるかもしれません。
しかし、石を三つ峠の中へ運んだとしても、
置いてくるわけにはいきません。持って帰ってこなければ。
水を運ぶというのはどうでしょうか?


三つ峠への道は、馬返しから特に厳しい。
本来の道は、岩にへばりついて登らなければならないところもあった。
それを、石の仏様を背負っていくとなると不安定でかなり危険。
幕末の時代、多くの者が願いを込めて登る。

そんなことを想像してみた。
この実験は行わない。 

大幡から下暮地、そして三つ峠への道

久しぶりの大幡の集落。
長年炭焼で山を歩いていた方に出合う。
興味深いお話を頂きました。
参考にっさせていただきます。
大幡と西桂を結ぶ道は、低いところを通る。
今日も三つ峠へ登るつもりだったのですが
あいにく午前中の天気が不安定でしたので中止。
大幡の権現様へのお参りの話、興味があります。
どうして下暮地が猫なのに、大幡では...。
一度見てみたいものです。

2010年4月27日火曜日

三つ峠と富士信仰



浅間神社から三つ峠は北に位置する。
これが何かを意味するのではないかと思っている。
富士山の北にある岩山、三つ峠。
富士を礼拝する山が三つ峠ではなく、
富士からさらに礼拝する山が三つ峠などという信仰はないのか?
以前より不思議に思っている三つ峠の姿である。

2010年4月26日月曜日

達磨石はどうしてここにあるのか

このことに気がつきませんでした。
この場所から三つ峠が見えているのです。
西峠(屏風岩)については、確実に見えています。
この場所に達磨石があることが納得できます。
このことに気がついたのは1週間前のことでした。 
空の青いところではなくて、達磨石の頭の上の方。
写真では見えません。ここに立ち寄ったとき、ジッと見てください。
キッと見えているはず。

三つ峠への信仰を寄せた人々

幕末の絵図において『水雲山』とされる三つ峠の峰。
それにしても、大幡の信者の多いことに驚く。
空胎上人とその弟子によって、大幡の住民はこの三つ峠南面の岩を目指すようになったのだろうか?
大幡においては三つ峠は水の発する山であり、日の沈む山でもある。
西峰の屏風岩下までにおよぶ大幡信者の奉納をみると三つ峠全体を『水雲山』と考えていたと思われる。空胎上人らの活動から、入道沢-湯の沢-仏の沢から山祇神社-達磨石のルートが可能性が高い。
湯の沢-東尾根-八十八大師への近道とするのは、信仰の省略となり考えにくい。大幡と西桂の住民において三つ峠は特別な山であったのである。
『木無山』への信仰は、今のところ見つかっていない。
『御巣鷹山』へは、西桂住民の信仰は及んでいないと思われる。

2010年4月25日日曜日

三つ峠の秩父観音

新たに秩父1番から3番を発見しました。
前回の33番を撮り直してきました。
1番から3番も、もう一度撮り直しが必要のようですね。
不思議に思うのは、
なぜ『三つ峠の信仰と民俗』(平成4年 西桂町教育委委員会)において
発見できていなかったのか?
既に崩壊などで紛失、埋没してしまったものもあることは、
以前述べました。
今回までの発見によっていくつかの新たな事実も見えてきました。
また、出掛けることにします。
秩父観音については、すべての奉納が完了したのだろうか?
それとも、未完に終わったのか?
西国はどうか? 坂東はどうなのか?
幕末の三つ峠に何を求めたのか?
三つ峠の歴史、三つ峠の由来。 まだまだ不思議が存在する。

三つ峠へ

先日の写真をもう一度撮りに登る予定。
足、不安であるけれども。

2010年4月24日土曜日

三つ峠の由来、いろいろな目線

三つ峠山
河口村分の八町山より峰続き東南1里あまり。
この山に至る峰は、奇岩峨々として、三峰に秀ず
故に、三つ峠という。
岩上に小祠あり、三つ峠権現という。

『八町山より峰続く。
三つ峠山に至る峰は三峰』と読めば
甲斐国志においても、御巣鷹山も含む可能性がある。


結局どの目線で眺めているかによって解釈が異なることになる。

1. 聞き取った者の立場。
2. その山を信仰していた者の立場。
   (A) 山頂の峰を縦走していた修験者の立場。
   (B) 岩場の根元へ向かった里の信者たちの立場。

多数決から見れば、里の信者たちに分がある。
しかも、三つ峠は三峠であるばかりでなく水峠でもある。
水の湧き出る位置からも、御巣鷹、木無ではない。


ところが近年、三つ峠は水峠でない。
『みづとうげ』と呼ぶことがなくなった。
その水を求めることがない。


山頂を求め、御巣鷹山、木無山に到達することを目的とする。
ここに、三つ峠の由来が変化することとなる。


三つ峠の由来。
三つ峠は『み(ず)とうげ』と呼ばれていた。
三つ峠は、水が豊富なことから『水峠』、
       三つの岩峰を持つことから『三峠』とも書かれていた。
近代登山が始まり、山頂を『開運山』と呼ぶようになった。
御巣鷹山、木無山を含み三つ峠(みとうげ)と呼ぶように変化した。
なにが本当なのか?
どれも本当。
それが世の中というもののような気がしてきた。


神鈴峯(みすずみね)も、『みずみね』に聞こえる。

2010年4月21日水曜日

今日の三つ峠

お昼にVCにKさんを訪ねる。
いなかったけど絵図を渡しておきました。


どうです?
今度、三つ峠に行きますか?
当方は足、なんとかしないとついていけませんが。


また会う日まで、お元気で。
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2010年4月20日火曜日

三つ峠のモアイ_伝言板

2日間、どうもありがとうございました。
町中は不得手なもので、失礼いたしました。
どこの誰だか知らないけれど。
二度と会うことのない可能性の方が高い。
何とかいう番組を見たことがある。
翌日の別れに涙する。そんな感じです。
明日になれば、いつもの生活が始まる。
なんでもない日々を過ごす。
午前中にだけ現れる三つ峠のモアイ。
誰もそんなものがあると言うものはいない。
そんなことは聞いたことがない。
何の言われもない。


だけど自分には見えるのです。
だから、三つ峠に行くのです。
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2010年4月17日土曜日

4月の雪の三ツ峠


三ツ峠にも雪が降りました。
昨夜から降り、麓にも積もりました。
今日の三ツ峠の姿です。
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2010年4月11日日曜日

不二石を過ぎれば八十八大師

不二石を通り過ぎれば八十八大師です。真っ赤な塊が見えてきました。3月の末に出かけたときには一年前のおべべでした。 お大師様のおべべが新調されると春がやってきます。3月と4月の写真を見比べてください。お大師様の表情も変わっているのかもしれません。

三つ峠憩いの森も桜が満開

だるま石までが車で通れるようになったことを嘆く登山者もいるようですここを歩くと三つ峠が三つの峰を持つことを目にすることができます。
ところがこれらを木無山、開運山、御巣鷹山と勘違いされている方が多いようですね。
三つ峠の信仰とは三つの岩場であり、その根元となります。木無山へも御巣鷹山へも行きません。登山者は三つ峠の三つの峰のうち左の岩場の上に立っているだけの方がほとんどだと思われます。
もっとも残りの2つの峰に行っても実感がありませんが。
「三つ峠は木無、開運、御巣鷹」の総称とするとの解釈は今では地名辞典にも掲載されることになり、山梨県でも説明板を載せ説明されているようです。
三つ峠から何を感じるか? 昔から何を想像するか?(と言っても私の場合200年程度の前のことを考えているに過ぎないのですが)
憩いの森まで桜が咲いています。 
だるま石から歩く方は山頂の姿を目にすることはありません。

人々が目指した三つ峠の山、大幡の信者たちの道の謎

愛染明王は存在が知られていてもこの前を通られる方はほとんどいないようです。
現在の登山道から外れているからです。
もっとも外れていないだるま石や八十八大師でさえ素通りされるのが現代。
山頂三角点に立つことが目的なのですから仕方がありません。
200年前の大幡の信者の方たちはここを通ったに違いありません。
入道沢(または尾根)から仏の沢(または尾根)を通り山祇神社、達磨石を経てこの道を通ったと考えられます。大幡から山頂への道は他に存在します。しかし、目的は信仰であることを忘れてはなりません。とすれば、この道を通ることしか考えられないのではないでしょうか。
大幡の信者のルートの謎は解けたと考えています。

石割権現の岩の隙間

三つ峠の石割権現にも隙間があります。人がなんとか通れます。このズレ落ちたような石は200年前にもそのままだったのでしょうか。
そうでないと、割れている石など登山中にあちこちに存在しています。お宮さんは手前の岩のくぼみにあります。

2010年4月10日土曜日

赤いおべべの八十八大師

先日訪ねたときから様変わり。
お大師様には、新しいおべべ。
毎年4月にはレディース西桂の方々により新しいおべべが奉納されています。
今日は良いことがすでに有りました。だって、前々よりお話を伺いたいかたに三つ峠の山でお会いできるなんて。 なんとも感動です。こんなことがあることかと不思議な思いです。
ところが下山は悲惨です。 左膝をやられました。
当分お山もおあづけでしょうか? 

近くの山はいいですね。 特に三つ峠。

石割権現、忘れ去られた三つ峠山内の神社

久しぶりに石割権現もお参りをしてきました。
と言っても忘れ去られた神社。
かつてはこの脇を歩いていたようですから、人々の関心もあったのでしょう。
現在の登山道からでも今の季節であれば確認できています。
山頂を目指すのではなく、山のところどころに信仰を求めていた時代がありました。
幾時代かがありまして。
今では立ち寄ることもなく。
里では桜が満開です。神輿の季節となりました。

三つ峠の信仰、新たな石造物

 新たに秩父観音を見つけました。
これで六つが確認されました。
本日は太陽の光がなくうまく写りませんでした。
当初32番と思っていたのですが、33番のようにも思えます。
再度確認に出かけたいと思っています。
大幡の奉納者です。
下大幡、上大幡の信者たちは三つ峠の山頂近くまで、
しかも西桂地内まで越えてやってきています。
大幡の方々の三つ峠の信仰は、どうしてそんなに大きいものだったのでしょうか?

※33番のようですので再度確認に行ってきます。 情報ありがとうございます。

2010年4月4日日曜日

本当につまらないお話

世間というものは難しいものですね。
トンネル掘りというものは大したものです。
右から掘って、左から掘る。
きちんと合うようですから大したものです。

世の中には儀式というものが多いようですね。
儀式はギシキとして進める必要があるようです。
誰もがわかっている答えを知らなかったように振舞わなければなりません。
そして、誰もがわかっている答えに到達したとき初めて気づいたように感動しなければなりません。

大人の世界というものはそうらしいのです。
いつまでも大人になれない自分に…。

少々落ち込んでいるという現況。 非常につまならいお話でした。
三つ峠から何を感じ取れるかについて専念しようと思います。
だいぶ浮気心から寄り道をしすぎているようです。
このブログは歴史を説明しているわけではないのですから、今後もそんなふうにしようと思います。

西方浄土の三つ峠

谷村までやってきた ときの光景です。
太陽は三つ峠の向こうに沈んでしまいました。
御巣鷹山、東峠、中峠、西峠が見えています。
谷村方面からも三つ峠が神 秘な山であることがわかります。
都留インター附近で発掘された遺跡では春分、秋分の日没位置 に三つ峠があるらしいとのことです。
仏教伝来以前でも意識されていた山の可能性もあります。
後光の差した山の姿に何かを感じませんでしょうか?

「人々を誘いていざ行かん極楽浄土の三ツの山」
四世修善浄阿和尚の作と言 われる三つ峠数え歌の1番です。

2010年4月3日土曜日

大幡道の中で

湯ノ沢を越え入道沢にはいると一筋の滝がありました。
林道を目指していましたので沢の方に下っていきました。

西桂と大幡を結ぶ道、三つ峠への信仰の道か




西桂から大幡への道を歩いてみた。
双方とも途中までは歩いているのだが、湯の沢をまたいだことがなかったのである。
本来は仏の沢が道であったようだが、宮作桐が坂から登る。
湯の沢を超え入道沢に入る。
こちらの方も明治の地図では尾根道のようなのだが林道をめざす。

2010年4月2日金曜日

三つ峠空胎上人の水修行の場、浅間神社



空胎上人は浅間神社境内の湧き水の場で修行をした。
ここに石碑がある。







この神社の参道は、春分、秋分の日の出の位置の方向となっている。
太神宮の参道も同じ方向である。
しかし、他の一般道には規則性がみられない。
両神社の参道だけが並行に走っているのは偶然なのだろうか?
この地域は「小沼(尾沼)」と言われ、沼地であったと言われる。
明治期には、神社の西方には推進10cm程度の大きな池があったとされる。現在では「池の頭」の地名だけが残っている。
神社の前をはしる道(北東-南西)は、「富士道」である。
伊能忠敬測量隊が歩いている道である。
(測量隊は大月へ向かうので北東方向に進んだ)