2010年2月28日日曜日

三星神社_藤野木

藤野木の三星神社。

御坂峠の入り口。

河口へ向かう道である。

三つ峠へは、八町峠へ向かったと思われる。

従って、ここは通らない。

三星神社。 

この神社も不思議な神社である。(と思う)

確認した上で、お知らせしたいと思っている。 面白い事実。
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2010年2月27日土曜日

大正時代の三つ峠

神鈴権現までの道がある。
三つ峠の山頂は、みっつの峰がある。
御巣鷹、木無(けなし)もありますが…。

2010年2月21日日曜日

衆善奉行の碑と富士山


明治期の絵においても、衆善奉行の碑の向きは変わっていない。

この碑を拝むと、向こう 側に富士山が見えるのは偶然なのだろうか。

1850年頃に建てられたと思われる。 年代が読み取れない。

不 ニ山一乗寺の入り口。 寺の背後には、三つ峠がある。

2010年2月20日土曜日

S先生へ

選択肢を多く持っておく必要がある、との意見ありがとうございます。

自分の場合助かったのは、その点であったことに気がつきました。

会に参加できてよかったと思っています。

「衆善奉行」の碑

バイカモのハナは、花なのか


バイカモのハナは、花らしい。 
流れの弱いところにあるものは、水の上に顔を出す。
ところが、桂川に生えているやつは
いつまでたっても、水の中。

水の中で生きたいと思ったからではなく、
水の中で生きているものが生き残った。

キリンは高いところにあるものを食べることを望んだのではなく、
高いところにあるものを食べられるものが生き残った。

私は大人になってからも、
シーラカンスが何億年も生き続けていると信じていた。 

「昔はどうだった?」 の議論も面白いものである。
いつの時代にだって、「昔はよかったのに」と言われる。

今が昔になった頃、この瞬間を「よかったなあ」と言われる時代がやってくる。

バイカモのハナは、花なのか?
ずっと疑問に思っていた。
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2010年2月16日火曜日

どうして三つ峠が選ばれたのか、歴史とは言えない話

奈良時代に修行の祖、「役行者小角」によって開かれという三つ峠。

溶岩があっちこっちで噴出して、
富士山は大変な状態であったから、
近くの山の三つ峠においでになったことでしょう。

とすれば、このときの三つ峠は現在と同じように
富士山を眺めるための山。

ちょっと寄っただけのところが、
たまたま三つの岩峯をもっていた山であっただけのこと。

そんなふうに考えてしまってもいいのだろうか。
御坂山塊には、もっと高いところもあるでしょうに。

三つ峠と富士山を、どのように眺めていたのか

私が見ているのは、幕末の三つ峠でした。
人々が三つ峠をどのように見ていたのか?
江戸からやってくる人たちは、
三つ峠を見ていなかったのかもしれません。
また、この地に住む人たちは、
さほど、富士山を見ていなかったのかもしれません。

1000年前であれば、
人々は富士山のみを気にしていたに違いありません。
ひとたび富士山が落ち着いてしまったとき、
この地に住む人たちには、
当たり前の姿にしか見えなかったのかもしれないのです。

今の私たちのように。

信仰の意味は、時代によって異なっていたのではないのでしょうか?

2010年2月12日金曜日

三つ峠周辺の山の名前、伊能図より

伊能図に記載される山の名前を見てみよう。

明見山。 石窪山。 獅子留山。 石割山。

鹿留(ししどめ)山と石割山を基準とすると、

石窪山、明見山はどこになるのか?

杓子山が明見山だとすると、石窪山とは?

福善寺(ふくせんじ)は、大明見(おおあすみ)にあったと伝えられる。

山号を明見山という。

大明見の集落が移動する前の場所。

記録された山の名は、勘違いされたものだろうか?
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2010年2月9日火曜日

かいうん山と三つ峠


このお寺の山号は、『かいうん山』。

星に関係するものもあるらしい。

では、三つ峠との関係となると、???。

まず、ここの位置からは三つ峠は全く見えない。

白隠禅師は、甲府に向かう途中(または帰り)

ここのお立ち寄りになられたらしい。

甲府に入るには、御坂路を通ったのだろうか?

その辺りの情報は、現在持ち合わせていない。  しかし、どこかで三つ峠を眺めているはずである。

その時、白隠禅師は何を感じたのであろうか?
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白隠禅師の万霊塔


白隠禅師の書といわれる万霊塔。

白隠禅師は、三つ峠を眺めていただけましたか?
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激動の富士火山を眺めていた三つ峠

妙見に関する寺社があるらしので、明見と山中平野へ行ってきた。
話を伺うのであるが、明治の変革の大きさを感じた。

今に伝わるものが昔ではなく、今に伝わるものは今。

そうするとあそこのあれも今であり、あちらのあれも今。
もっとも甲斐国志のそれだって、そこ頃の今。

『せのうみ』って、どこをどのように言っているんだろうか?
『古せのうみ』と『せのうみ』は異なるし。
昔、『古せのうみ』なんてことは言ってはいないのだが、
名前をつけておかねば説明ができない。

宇宙湖、と宇津湖。鷹丸尾、山中湖。

富士山講座を受けたのであるが、
青木が原溶岩、剣丸尾、鷹丸尾らと富士五湖の形成過程が混乱してきた。
もっとも新しい考えは、どうなっているんだろう?
ご存知の方、教えてください。

三つ峠は、それらをじっと眺めていたのである。
信じられるものは天の星。 北斗七星であったのだ。(と思う)。

2010年2月8日月曜日

富士山の水、バナジウム

日曜日、県の研究所の環境体験講座を受講してきました。
バナジウムの測定をしていただきました。
西桂の我が家の台所から出る水。
1リットルあたり62マイクログラムのバナジウムであるとのこと。

富士山の水の特徴は、バナジウムを多く含むのだそうである。

三つ峠の清龍不動の水は、額にたらすと頭の病が治るとの言い伝えもある。
三つ峠の水には、何か特徴があるのだろうか?

富士山の水が病気が治ると言えるほどの実験結果は出てはいないとのこと。
三つ峠の水にしても、富士山の水においても、
何か効果があるように思わせるのは、何がそうさせているのだろうか?

いずれにせよ、おいしい水であることは確かである。

遠くからこちらへおいでの方へ。
こちらについたら、蛇口をひねって水を飲んでみてください。
おいしい水が、出てきます。

三つ峠の歴史、富士山の噴火の歴史から

三つ峠の歴史を考えるとき、富士山との関係は重要です。
奈良時代、平安時代の山岳宗教の中で、
富士山では大きな噴火がありました。
精進湖や西湖が誕生する溶岩の噴出。
現在の樹海では、火の海でした。
また、溶岩によりせき止められた桂川には
山中湖が誕生します。

三つ峠の山頂から、これらの姿を修験者たちが
眺めていたことでしょう。

このことを考えると、
三つ峠は、富士山を眺めるための山となります。

時代によって、三つ峠の意味も異なっていたのかもしれません。

2010年2月5日金曜日

三つ峠とハレー彗星

天保6年(1835)、一字一石供養塔が建てられた。

この年にハレー彗星が出現。

北斗七星の方角に。

三つ峠の上にハレー彗星の尾が見えていたはずである。

このことについての空胎上人の記録はないのだろうか?

人々はどんな思いをしていたのだろうか?

2010年2月4日木曜日

伊能図は勘違いしていたのか、仙湖とは、せのうみなのか

甲斐国志の富士八海。 山中の海をみる。
『古名、石花海 なり』とある。

石花海とは、『せのうみ』。
富士五湖すべてが『せのうみ』なのか?
とすると、『仙湖』とする『せのうみ』は、河口湖なのか?

伊能図は、間違っていないとも考えられる。

『仙湖』。

伊能図の『仙湖』とは、三つ峠の歴史との関係は

伊能図の仙湖とは、西湖のことだったのですね。
甲斐国志の富士八海に西湖の記述がある。

西(せ)の海
古名、戔海と訓ず
今、西の字を用いるも音をとりてセノウミと言い、
今は、ニシノウミと言う。

戔 -> (せん)  -> 仙
海 -> (うみ) -> 湖
河口湖を西湖と伊能測量隊に教えた方は誰なのでしょう? 
三つ峠の歴史の中で「仙泉山」とも言われたとの情報源はどこにあるのだろう。
私もどこかに書いてしまっているような気がする。
もしそれが正しいとしても『仙湖』とは関係がないようである。

『せのうみ』とは、1000年前の富士山の噴火によって分断されてしまった
本栖湖と精進湖と西湖を一つとする巨大な湖のことである。

今日でも、西湖としてその名が残っていることにも発見があった。
1000年前に、三つ峠の山頂から富士山の樹海が火の海になっている姿を
どこかの誰かが見ていたに違いない。