八十八大師は、八十八体供養塔の年代と同じと考えることにする。
すると三十三観音は、それ以前か以後なのか?
明治直前だと思うのだが、そうなると奉納者と三つ峠の関係に疑問が発生する。
空胎上人とその一門たちは、三つ峠をどのようにしたかったのだろう。
空胎上人以前の信仰と、新事業とは何ら問題はなかったのか?
33ヶ所巡りの事業は、成功したのだろうか?
三つ峠の竜馬伝、篤姫、新撰組。 三つ峠山中には、別世界があったのだろうか?
里ではペリー来航の影響で、お台場建設に協力していた時代のこと。
現在では『三ッ峠山』と書いてあるものが多いようですが、かつては『みづとうげ』と発音し『三峠』とも『水峠』とも書かれていました。『三都峠』という古文書もありますが。御巣鷹、開運、木無が三つ峠ではなく、三つ峠そのものが三つの峰を持っています。その姿は西桂でしか見ることができません。大幡方面にのみ『水雲山』と称するお宮が存在します。『開運山』の名称は古文書には見当たりませんが呼べる理由は存在します。
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