2007年6月30日土曜日
三峠は、いつから『みつとうげ』か?
駅のまわりを見てみましょう。
『三つ峠駅』 ...「つ」の文字があります。
『三ッ峠登山案内所』...「ッ」の文字。
『三ッ峠みやげ』 ...「ッ」の文字。
『みづとうげ』と読んでいた時代、なぜ『みつとうげ』としていったのだろうか。
意外と知られている『顔の岩』(face rock)
2007年6月29日金曜日
三峠『夕日尾根』に沈む夕日
2007年6月28日木曜日
『金峰山』も『まつるべ山』も磁石は狂わない!
三峠から延びる尾根に『金峰山』があります。
平成18年秋のことです。『金峰山では方位磁石が狂う!』という話が持ち上がりました。
そして、10年前の平成8年7月21日、岩手県一関市まつるべ山においても
『磁石が狂ったために遭難した!』、しかも、『方位磁石は40度も狂う!』というのです。
金峰山のその場所には、こんな落書き『40°西へ傾くところ』。
さっそく調べてみましょう。 結果は???
まったく狂っていません。
平成8年7月21日の岩手県一関市まつるべ山においては、どうだったのでしょう?
当時の新聞記事には、そのようには書かれていませんでした。
その時の参加者のおひとりに、聞くことができました。
やはり、『方位磁石の異常による遭難ではない』ことが判りました。
そもそも、『方位磁石が狂う場所』はなかなかないらしいのです。
よく、『富士山の青樹が原樹海において磁石が狂う』という話があるのですが
実際には狂わないとのことです。
山岳遭難において、『方位磁石が狂ったための遭難は事例がない』とのこと。
よくよく考えてみれば、
『海上を航行する場合と、山を歩く場合では違う』ことが判ります。
海上では特に障害物がありませんが、山の場合はその方角に進もうとしても
そこには道はありません。 岩があったり、樹木があったりと方角を変えなければ進みません。
いつのまには、どっちの方角を向いているのは判らなくなってしまいます。
尾根があれば、尾根を歩いてしまいます。
沢があれば、沢を歩いてしまいます。
結局のところ、『自分自身の判断ミス』。 けっして、『方位磁石が狂った』のではありません。
三峠から続く金峰山の尾根、ここに『富士見散策路ハイキングコース』があります。
その中に『40°狂う』という看板を見つけてください。
どうです、方位磁石は狂っていますか?
更にこの場所に人工的な平坦地が多く存在し、
これを『古代寺院群、古代遺跡が存在』などという話が持ち上がりましたが
『人工的な平坦地』は、『最近まで行っていた畑の跡』でした。
くれぐれも、勘違いなさらぬように...。
平成18年秋のことです。『金峰山では方位磁石が狂う!』という話が持ち上がりました。
そして、10年前の平成8年7月21日、岩手県一関市まつるべ山においても
『磁石が狂ったために遭難した!』、しかも、『方位磁石は40度も狂う!』というのです。
金峰山のその場所には、こんな落書き『40°西へ傾くところ』。
さっそく調べてみましょう。 結果は???
まったく狂っていません。
平成8年7月21日の岩手県一関市まつるべ山においては、どうだったのでしょう?
当時の新聞記事には、そのようには書かれていませんでした。
その時の参加者のおひとりに、聞くことができました。
やはり、『方位磁石の異常による遭難ではない』ことが判りました。
そもそも、『方位磁石が狂う場所』はなかなかないらしいのです。
よく、『富士山の青樹が原樹海において磁石が狂う』という話があるのですが
実際には狂わないとのことです。
山岳遭難において、『方位磁石が狂ったための遭難は事例がない』とのこと。
よくよく考えてみれば、
『海上を航行する場合と、山を歩く場合では違う』ことが判ります。
海上では特に障害物がありませんが、山の場合はその方角に進もうとしても
そこには道はありません。 岩があったり、樹木があったりと方角を変えなければ進みません。
いつのまには、どっちの方角を向いているのは判らなくなってしまいます。
尾根があれば、尾根を歩いてしまいます。
沢があれば、沢を歩いてしまいます。
結局のところ、『自分自身の判断ミス』。 けっして、『方位磁石が狂った』のではありません。
三峠から続く金峰山の尾根、ここに『富士見散策路ハイキングコース』があります。
その中に『40°狂う』という看板を見つけてください。
どうです、方位磁石は狂っていますか?
更にこの場所に人工的な平坦地が多く存在し、
これを『古代寺院群、古代遺跡が存在』などという話が持ち上がりましたが
『人工的な平坦地』は、『最近まで行っていた畑の跡』でした。
くれぐれも、勘違いなさらぬように...。
2007年6月24日日曜日
ここらあたりの北緯と東経は、どのくらいでしょうか?
三ッ峠案内板の謎?
三ッ峠駅を降り、下暮地の集落を歩く。
集落を通り抜けるころ、『三ッ峠登山案内図』がある。
大方の皆さんが目にするのではないだろうか。
すでにご存知の方もいらっしゃると思うのですが、
知らない方には、お知らせしましょう。
この案内板のことです。 『開運山(三ッ峠山)』が中央部になっています。
私たちが登っているのは、中央部ではありません。
三角点のある屏風岩の上なのです。
さらに、中央部の岩下に神鈴権現があります。
その前に建つ石造物は、『一字一石供養塔』です。
『一時一石供養塔』ではありません。
平成16年3月に、この件を当局に通知しているのですが、訂正されていません。
ご存知のない方には、ここにお知らせいたします。
『親不知の碑』は、うっかりすると見過ごしてしまいます。
『愛染明王』の碑は登山道がほんの少しはずれていますので、
やはり、見過ごしてしまいます。
集落を通り抜けるころ、『三ッ峠登山案内図』がある。
大方の皆さんが目にするのではないだろうか。
すでにご存知の方もいらっしゃると思うのですが、
知らない方には、お知らせしましょう。
この案内板のことです。 『開運山(三ッ峠山)』が中央部になっています。
私たちが登っているのは、中央部ではありません。
三角点のある屏風岩の上なのです。
さらに、中央部の岩下に神鈴権現があります。
その前に建つ石造物は、『一字一石供養塔』です。
『一時一石供養塔』ではありません。
平成16年3月に、この件を当局に通知しているのですが、訂正されていません。
ご存知のない方には、ここにお知らせいたします。
『親不知の碑』は、うっかりすると見過ごしてしまいます。
『愛染明王』の碑は登山道がほんの少しはずれていますので、
やはり、見過ごしてしまいます。
2007年6月21日木曜日
2007年6月19日火曜日
三峠山中に謎の神社?
柄杓流川の他に『桂川』
いつから、『みツとうげ』?3
『三ッ峠山平面界図』、これには駅名が『小沼』とあるから昭和18年以前である。
『三ッ峠保勝会』の地図にも会の名称にも「ッ」の文字が入っている。
ところが、この会の大正十二年に書かれた登山案内原稿を見ると
『三峠』、『三峠山』、『甲斐国誌三峠山記事』とあり『ッ』の文字は入っていない。
この原稿には、
「山名ニハ別称ヲ挙クレバ往古ハ仙泉山ト云ヒ或ハ三峯山或ハ神鈴峯ノ名アリ」
と書かれている。
『三峯山』・・・ みつみね? みづみね?
『神鈴峯』・・・ みすずみね? みずみね?
『仙泉山』・・・ せんせんやま?? この名が書かれているものを他に見ていない。
かつて、河口湖を『仙湖』と呼ばれていたから、河口湖と深く関係しているのかもしれない。
『柄杓流川』の名の由来にあるように。
昭和18年以前に書かれた観光用の案内図には『ッ』の文字が入っている。
『開運山』、今のところ由来については全くわかっていない。
『三ッ峠』、登山、観光によって一気に一般化の名称となった『ッ』。
『三ッ峠保勝会』の地図にも会の名称にも「ッ」の文字が入っている。
ところが、この会の大正十二年に書かれた登山案内原稿を見ると
『三峠』、『三峠山』、『甲斐国誌三峠山記事』とあり『ッ』の文字は入っていない。
この原稿には、
「山名ニハ別称ヲ挙クレバ往古ハ仙泉山ト云ヒ或ハ三峯山或ハ神鈴峯ノ名アリ」
と書かれている。
『三峯山』・・・ みつみね? みづみね?
『神鈴峯』・・・ みすずみね? みずみね?
『仙泉山』・・・ せんせんやま?? この名が書かれているものを他に見ていない。
かつて、河口湖を『仙湖』と呼ばれていたから、河口湖と深く関係しているのかもしれない。
『柄杓流川』の名の由来にあるように。
昭和18年以前に書かれた観光用の案内図には『ッ』の文字が入っている。
『開運山』、今のところ由来については全くわかっていない。
『三ッ峠』、登山、観光によって一気に一般化の名称となった『ッ』。
2007年6月18日月曜日
いつから、『みツとうげ』?2
『ツ』も昔から、あったかのもしれない。
天保二年 (1831) 『三都峠』 ・・・ これは、み『ツ』とうげ、だろうか?
天保一二年 (1841) 『神鈴峯』
安政五年 (1858) 『三鈴峯』
年次不詳 『神鈴峯』
これらは、『甲斐神鈴峯之図』の描かれたころ、空胎上人の関連の古文書。
伊能図は、『三峠』、甲州道中分間延絵図では、『水峠』。
『みづとうげ』、『みずとうげ』ばかりではなく、『みつとうげ』もあったのだろうか??
当時、文字の書ける人は少なかった。
呼び方も、いろいろあったのだろうか??
天保二年 (1831) 『三都峠』 ・・・ これは、み『ツ』とうげ、だろうか?
天保一二年 (1841) 『神鈴峯』
安政五年 (1858) 『三鈴峯』
年次不詳 『神鈴峯』
これらは、『甲斐神鈴峯之図』の描かれたころ、空胎上人の関連の古文書。
伊能図は、『三峠』、甲州道中分間延絵図では、『水峠』。
『みづとうげ』、『みずとうげ』ばかりではなく、『みつとうげ』もあったのだろうか??
当時、文字の書ける人は少なかった。
呼び方も、いろいろあったのだろうか??
2007年6月17日日曜日
『股のぞき』では、自然に股から覗いてしまうのです
2007年6月16日土曜日
親不知から見た『顔の岩』
八十八大師を通り、しばらく進むと『親不知』にたどり着く。
今では、この上部にある岩場のところまで崩壊が進んでいる。
目線を変えて、進行方向の岩場を眺めてみよう。
すると、そこに『顔の岩』。
この顔は、午前中でなければ見ることができない。
北辰妙見菩薩が祀られていたという東峠だ。
最近、声をかけた見知らぬ登山者の方に写真を見せると、
『知っている』と言っていた。
ここは、危ないところなので、先を急いでします。
しかも、見るのは足元ばかり。
親不知を渡る前に、安全な場所があるので
ことで一息、目の前の岩を眺めてください。
それにしても、あの登山者の方。
いつから、この岩のことを知っているのでしょうか?
以前から、知られている事実なのでしょうか?
いつから、『みツとうげ』?
この土地に住む人に聞くと、ほんの少し前まで『みづとうげ』。
では、いつから『みツとうげ』?
『秋葉原』は、本当は『あきばハら』。
では、 いつのまにか『あきハばら』。
駅の名前は、以前は違う名前でした。 小沼駅。
駅名を変えたときに、そうなったのでしょうか?
まだ、調べてありません。
いったい、いつから、『みツとうげ』?
では、いつから『みツとうげ』?
『秋葉原』は、本当は『あきばハら』。
では、 いつのまにか『あきハばら』。
駅の名前は、以前は違う名前でした。 小沼駅。
駅名を変えたときに、そうなったのでしょうか?
まだ、調べてありません。
いったい、いつから、『みツとうげ』?
『みっつ』のピークの『みづとうげ』
『三峠』には、三つのピークがあります。
西峠、中峠、東峠となっています。
これは、『木無山』、『開運山』、『御巣鷹山』ではありません。
それを書いてあるのは地名辞典だけなのです。
そして、その云われ、由来となるものが無いのです。
ですから、古文書の中に出てきません。
三つのピークで『三峠』なのです。
由来のわからない『開運山』、古文書や絵図にありません。
天保時代のものといわれる『甲斐神鈴峯之図』にも、
三つのピークが描かれています。
そもそも、『木無山、開運山、御巣鷹山』を、
三つのピークとして眺めることができるのでしょうか?
『甲斐神鈴峯之図』では、東峠のところに、『水雲山』と書かれています。
御巣鷹山の尾根に『水雲山三峠大権現』の祠があります。
三峠信仰の社。 南北方向に配置され、北極星、北斗七星を意識しています。
この社があるところが『水雲山』ではなく、『三峠』が『水雲山』なのです。
三峠から流れ出す『柄杓流川』とも関係があるはずです。
2007年6月12日火曜日
2007年6月11日月曜日
三峠は『水峠』、そして『柄杓流』(北斗七星)の山
2007年6月9日土曜日
2007年6月6日水曜日
2007年6月4日月曜日
『柄杓流川』のひみつ
『しゃくながれがわ』って読むんですが、江戸期の絵図には『ヒシャクナガレ』って書いてあるものもあります。
伝説によれば、河口湖に柄杓を流してしまった。その柄杓が三峠を通り抜け下暮地村に流れ出てきたというのです。 そこで、この川を『柄杓流川』というのだそうです。
しかし、こんなことはありえません。 私は思うのです。 三峠の東峠には『北辰妙見菩薩』が祀られていることが古文書にあります。 それは、北極星、『北斗七星』のことだそうです。
とすれば、神(または仏)様が天の柄杓(北斗七星)で河口湖の水を汲む。 その水を三峠に注ぐ。 その水が川になる。 その川の名を『柄杓流川』。
三峠は『みづとうげ』。 水峠ともいう。 山頂直下の岩場から、年中水がしみ出ている。 古代の人たちが天の柄杓を見て、想像したに違いない。
この川をしばらく下ると、『天の瀧』の水と合流する。
『柄杓流川』。 三峠を源流とする、不思議な名の川です。
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