武田久吉氏の『冬の三ツ峠山』を読みなおした。
大正時代の三ツ峠が丁寧に書かれている。
古くから意識されてきた場所は屏風岩であったのだ。
河口方面からは毛無山の屏風岩。
大幡方面からは御巣鷹山の屏風岩。
暮地方面からは三峯山の屏風岩。
それぞれの里からの見方は異なる。
しかし、どれも三ツ峠のことなのである。
このことをいつのまにか、『総称』と呼ぶようになった。
やっと、謎がとけた。
現在では『三ッ峠山』と書いてあるものが多いようですが、かつては『みづとうげ』と発音し『三峠』とも『水峠』とも書かれていました。『三都峠』という古文書もありますが。御巣鷹、開運、木無が三つ峠ではなく、三つ峠そのものが三つの峰を持っています。その姿は西桂でしか見ることができません。大幡方面にのみ『水雲山』と称するお宮が存在します。『開運山』の名称は古文書には見当たりませんが呼べる理由は存在します。
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